心ひとつ

掲載日:2023年6月1日(木)

「一心万変に応ず」という言葉があります。この言葉は終戦の詔勅、かの玉音放送の起草に関わった安岡正篤さんの著書の中にある言葉です。安岡さんは「人間世界のことは色々さまざまで、いわゆる万変で際限がない。ことに人生の出来事というものは矛盾衝突が多く、なかなか思うようにいかないが、そういう時に一応自分の心ができておると、いかなる変化が生じても何とかやっていける。それが〝一心万変に応ず〟ということだ」と言われています。自分の心さえ整い、定まっていれば、また修養ができていれば、人生のどのような変化にも処していけるという意味です。

 大事が起こった時に心が整っているか、日頃から修養ができているかどうかということがわかります。

「疾風に勁草を知る」という中国の古い言葉があります。疾風というのは激しく吹き荒れる風。勁草は強い草です。激しい風が吹き荒れると、弱い草は倒れてしまい、初めてどれが強い草かがわかります。人間もそれと同じで、平穏無事の時は意志の強い人間も弱い人間も区別がつきません。厳しい試練に遭った時に初めて、その人の意志や節操の堅固さがわかるのです。

『論語』にも似た言葉があります。

「歳寒くして、松柏の凋むに後るるを知る」

 寒い冬になってほかの木々の葉は枯れ落ちてしまっても、松や柏だけは青々と葉を茂らせている。人間もこれと同じように逆境の時になって初めて真価がわかる、ということを孔子も言っています。

『旧約聖書』の中に『ヨブ記』というものがあります。主人公のヨブはウツという地方の住民の中でも特に高潔で徳の人として有名でした。この人には美しい妻と7人の息子と3人の娘がいました。また莫大な財産を持っていました。即ち幸福の絶頂にあったのです。しかし、ある日ヨブは一日にして災害で財産をすべて失い、病気によって子ども達を全員亡くしてしまいました。さらに全身に悪性の腫物ができました。ヨブは一日にして絶望のどん底に落ちたのです。

 この時に心が萎えてしまった妻が「もう神を呪って死ぬ方がましです」と言うと、ヨブは「お前まで愚かなことを言うのか。私達は神からたくさんの幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」と言いました。

『旧約聖書』には「このようになっても彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった」とあります。即ち愚痴や不足、泣き言をヨブは一切言わなかったのです。しかし、人生のどん底に落ちたのは確かです。この時にヨブの耳に神からの「さあヨブよ。お前は勇者のように腰に帯をして立ち上がれ」という励ましの言葉が聞こえたのです。これを聞いてヨブは真っ直ぐに立ち上がり、〝命は自分が創り出せるものではない。神の恵みである。その恵みを受けたものとして相応しく生きていくために、自分は真っ直ぐに立ち上がり、神を見つめて歩んでいくのだ〟と決心したのです。

『旧約聖書』には「主はその後のヨブを以前にも増して祝福された。ヨブは、羊1万4千匹、ラクダ6千頭、牛1千くびき、雌ロバ1千頭を持つことになった」とあります。財産が以前の2倍になったのです。そしてヨブ夫婦はまた、7人の息子と3人の娘をもうけることができました。ヨブの娘達のように美しい娘は国中どこにもいないと言われました。さらにヨブは長寿を保ち、健やかに老いて死んだとあります。当時の寿命は百二十年と言われていました。ヨブは神に二十年余計に寿命をいただき、百四十年生きたと言います。この話はヨブが、神を信じて何が起こっても堪忍して、愚痴を言わず泣き言を言わずに信行したことによる功徳の話だと私は思います。

 法音寺にもヨブのような方がおられます。福山支院の宮崎上人です。宮崎上人は堪忍強く、とても明るい方です。徳の人だと私は思います。

 宮崎上人は日本福祉大学に通われている時に結核に罹られました。それがきっかけで岡山支院の皿田妙恵法尼に導かれてこの御法の世界に入られました。宮崎上人は信仰に入られる前、姓名判断に凝っておられて、名前を三回変えられています。茂勝、益行、謹彰、そして現在の良祐です。お母さんが「益行。いやいや、今は謹彰だったね」と名前を呼ぶのに時々困っておられたそうです。

 宮崎上人は高知のご出身です。高知には法音寺の高知布教所がありますが、高知市内のとても良い場所にあります。これは宮崎上人の寄進によるものです。宮崎上人の奥さまも非常に優しい菩薩のような方でした。この方が宮崎上人が64歳の時に突然の病いによって61歳で亡くなられました。〝あんな良い方がどうして〟という思いをもったのを今でも思い出します。その後、お母さんが突然亡くなってショックを受けられたのでしょう。大学に通っていた息子さんが持病のアトピー性皮膚炎の悪化で普通の生活が送れなくなり、大学をやめて実家に帰ってこられました。その後引きこもりとなり、毎日大量にお酒を飲む生活になってしまいました。

 宮崎上人には娘さんもいらっしゃるのですが、娘さんは結婚されて神奈川県に行かれました。しかし、結婚五年目の時、娘さん夫婦が交通事故に遭ったという連絡が突然入りました。これは新聞に載るような大事故でした。朝、ご夫婦で近所に外出した際、信号待ちをしていたところ飲酒の暴走運転の車に轢かれてしまいました。さらに悪いことに無保険の車でした。ご主人はほぼ即死。娘さんは命は助かりましたが大変な怪我でした。片方の足が粉砕骨折、脊椎も損傷していたのです。

 宮崎上人がすぐに駆けつけると、手術の時にお医者さんから「足は切断するかもしれません。脊椎が損傷しているので半身不随になる可能性もあります」と言われました。それから何回も手術を受け、二年近く療養をされました。その間に私は福山支院に何度か行きましたが、宮崎上人は一言も愚痴も泣き言も言われませんでした。

 その後、娘さんが退院され、私が福山支院に行った時に挨拶に来られました。「どうですか」と尋ねると「こうして畳に座ることもできるようになりました」と正座をして言われました。切断すら考えられた足が日常生活に何ら支障がないほどに回復され、もちろん半身不随にもなりませんでした。その時に「法音寺で働きたい」と言われましたが、私は「法音寺で働くこともいいけど、もう一度結婚して子どもも欲しいでしょ」と言いました。すると「そうです。もう一度結婚して子どもが欲しいです」と答えられました。私は「だったら法音寺ではなく、お父さんは今、とても寂しい時だから、お父さんの近くで働かれたらどうですか。その方が功徳になるし、出会いもあるかもしれませんよ」とアドバイスをしたのです。

 その後、岡山県庁の任期付職員として働くことになりました。それからしばらくして宮崎上人がニコニコして「娘が結婚することになりました」と報告してくださいました。「それは良かったですね。ところでお相手はどういう方ですか」と尋ねると、弁護士さんでした。お付き合いをするようになって、すぐにプロポーズをされたそうです。ご主人の仕事の関係で今は神戸におられます。一男一女に恵まれ、宮崎上人も可愛いお孫さんに相好を崩しておられます。

 息子さんの方は田川支院の手嶋上人が福山支院に行かれた際に教化され、それから毎朝のように、手嶋上人と電話で話をするうちに引きこもりが解消されました。そして現在、信教師を志して5月の浄心道場に入行されることになりました。宮崎上人の、何が起こっても愚痴を言わない、泣き言を言わない、その堪忍の徳、それと宮崎上人の明るさによって今があるのではないかと思います。

 ヨブや宮崎上人ほどではなくとも、人生には色々なことが起こります。辛いことや悲しいこと、ときに思いがけない試練が襲ってくることがあります。そんな時にもへこたれず、ぐっと耐えて、仏さまを信じて、勇者のように腰に帯をして立ち上がり、お題目と三徳の実行に励みましょう。