法華経は今世で成仏する教えです

掲載日:2019年12月1日(日)

日蓮宗の法要で一番盛大に行われるのは「お会式」であろうと思います。日蓮聖人のご命日やお逮夜に営まれる御報恩法要です。
「お会式」とはもともと「法会」の意味で仏教各宗共通のものでしたが、現在では日蓮聖人のご命日やお逮夜に営まれる法要儀式だけを意味するようになっています。これはおそらく日蓮聖人のご命日法要が特に盛大に営まれ、全国的に有名となり、他の宗派の「お会式」はかげをひそめてしまったのでしょう。
 作家の倉田百三が次のような文章を残しています。
「毎年十月十八日の彼の命日には、私の住居にほど近き池上本門寺の御会式に、数十万の日蓮の信徒たちが万燈をかかげ、太鼓を打って方々から集まってくるのである。スピリットに憑かれたように、幾千の万燈は軒端を高々と大群衆に揺られて、後から後からと通りに続き、法華経をほめる歓呼の声は天地にとよもして、世にもさかんな光景を呈するのである。フランスのある有名な詩人がこの御会式の大群衆を見て絶賛した。それは見知らぬ大衆が法によっておのずと統一されて、秩序を失わず、霊の勝利と生気との気魄がみなぎりあふれているからである。
 日蓮の張り切った精神と、高揚した宗教的熱情とは、その雰囲気をおのずと保って、六百五十年後の今日まで伝統しているのだ」(『学生と先哲 ―― 予言僧日蓮』原文のまま)

日蓮聖人は弘安5年9月、病気療養のため身延山を離れ、常陸の湯に向かわれました。途中、武蔵国の有力檀越、池上宗仲の屋敷に立ち寄られましたが、それ以上の旅をお続けになることはできませんでした。
 日蓮聖人の臨終間近いことを知り、各地から参集してきた弟子や檀越達に対して、日蓮聖人は最後の説法として『立正安国論』を講じられました。そして10月13日、門下読経のうち、辰の刻に法華経に一身を捧げられた波瀾のご生涯を終えられたのです。

日蓮聖人のご生涯は「立正安国」に貫かれた一生であったと思います。
 日蓮聖人は文応元年に『立正安国論』によって国家に諫言されました。当時の最高権力者・北条時頼に建白されたのです。
 日蓮聖人は建長5年4月28日に清澄寺で、昇る朝日に向かってお題目を高らかに唱えられ、立教開宗の宣言をされました。その後、日蓮聖人が覚悟されていたように迫害が始まりました。聖人が「念仏はいけない」と言われたからです。当時は念仏を唱えることが非常に流行していて清澄寺の人達も念仏を唱えていたため、日蓮聖人は清澄寺を追放され、鎌倉に赴かれました。

鎌倉には幕府があり、日本の政治の中心でしたが、天変地異が並び起こっていました。昨今の日本も異常気象がたびたび起こりますが、当時の鎌倉はもっとひどかったのです。ちょうど日蓮聖人が松葉ヶ谷に草庵を結ばれた頃です。建長5年2月に大地震、建長6年7月には暴風雨で国土が損亡し、11月にはまた大地震がありました。建長8年には大雨、洪水により多くの死者が出ました。これらは『吾妻鏡』という鎌倉幕府のことを伝える歴史書に記されています。

鎌倉時代は年号がよく変わりました。地震・洪水・飢饉・疫病など、悪いことばかり起こるので、その度毎に改元していたのです。これを「災異改元」といいます。年号が変わった正嘉元年には5月、8月、11月に大地震が立て続けに起こりました。特に8月13日に起こった大地震は「正嘉の大地震」といい、その規模はマグニチュード7・5と推定されています。『吾妻鏡』には「戌の刻、大地震。音有り。神社仏閣一宇として全きことなし。山岳頽崩、人屋顛倒し、築地皆ことごとく破損し、所々地裂け、水湧き出づ」とあります。大地震の後も災害は止むことなく、翌正嘉2年には暴風雨で諸国の田園がことごとく損亡しました。その年の秋には、また大洪水で家屋が流され、多くの人が溺死しました。さらに正嘉3年には大飢饉が起き、続いて大疫病が流行り、大勢の人が亡くなりました。このような様子を目の当たりにされ、日蓮聖人は〝何かがおかしい。一体どういうことだ〟と思われ、駿河国岩本の天台宗実相寺にある一切経を紐解かれ、その原因を調べられました。そして、その結論が『立正安国論』に書かれたのです。これを聖人は幕府の宿屋入道最信を通じて北条時頼に奏進されたのです。この時、日蓮聖人は宿屋入道に「禅宗と念仏宗とを失い給べし。このことを御用なきならば、この一門より事をこりて他国に攻められさせ給べし」と時頼に進言するように強く言われました。そしてこれは、北条時輔の乱、蒙古来襲として現実となりました。

『立正安国論』は「四六駢儷体」(四字と六字から成る対句を多用する文体)に擬した漢文体で書かれた非常に流麗な文章です。主人と旅客との全十段の対話で構成されています。

最初、主人のところに旅客が来て、「牛馬巷に斃れ、骸骨路に充てり」と近年の惨状を嘆きます。すると主人は相次ぐ天変地異、災難は法然浄土教の興隆に起因することを経文から論証していきます。そして念仏信仰を禁断することによって災難を防止できることをさらに経文から論証します。またこれは諸経に説かれる三災七難の内、まだ現実化していない「他国侵逼難(外国からの侵略)」と「自界叛逆難(国内の戦乱)」を未然に防ぐためであると言います。これが日蓮聖人の主張です。
 そして最後に、主人が「汝早く信仰の寸心を改めて、速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆仏国なり。仏国其れ衰えんや。十方は悉く宝土なり。宝土何ぞ壊れんや。国に衰微無く、土に破壊無くんば、身は是れ安全にして、心は是れ禅定ならん。此の詞、此の言、信ずべく崇むべし」(貴殿は一刻も早く邪まな信仰を捨てて、ただちに唯一の真実の教えである法華経に帰依しなさい。そうするならば、この世界はそのまま仏の国となります。仏の国は決して衰えることはありません。十方の世界はそのまま浄土となります。浄土は決して破壊されることはありません。国が衰えることなく、世界が破壊されなければ、わが身は安全であり、心は平和でありましょう。この言葉は真実であります。信じなければなりません、崇めなければなりません)と述べます。
 つまり、日蓮聖人は〝速やかに法華経を信じて実行しなさい。そうすれば何も心配することはない〟と言われるのです。

法然上人の念仏を禁断されたということですが、法然上人の教えは〝法華経は難行道であるから一般の人々は法華経によっては成仏できない。だから易行道である専修念仏(ひたすら念仏を唱える)が末法の衆生の成仏する道だ〟というものです。その法然上人に対して日蓮聖人は「謗法罪である」と言われました。なぜなら法然上人は「法華経を難行だから捨てよ、閉じよ、閣け、抛て」と言ったからです。法華経の譬喩品に「正法を誹謗する者は無間地獄に堕ちる」とあります。そこで日蓮聖人は「念仏無間」と言われたのです。

こういう言葉を聞きますと、「日蓮聖人は排他的だ」と言う人がいます。私も中学、高校時代に歴史の授業で鎌倉仏教を習った時、日蓮聖人の「念仏無間 禅天魔 真言亡国 律国賊」について、友人から「日蓮聖人は排他的だな」と言われたことがあります。しかし、それは違うのです。「念仏を唱えて成仏」というのは「西方浄土(あの世)で成仏をしよう」ということ。それに対し、日蓮聖人は「この世でこの身のまま仏に成ろう」と言われたのです。日蓮聖人の教えである「娑婆即寂光」は「この娑婆世界をそのまま仏さまの住まわれる寂光土としよう」というものです。我々が法華経を如説修行して、功徳を積めば、この世がそのまま寂光土となり、この身このまま、仏と成れると教えられたのです。これこそはお釈迦さまの教えなのです。

お釈迦さまの時代、バラモンが非常に権威を持っていました。一般の人々は皆バラモンのところに通っていました。なぜならバラモンが「今世の業によって来世の行き先が決まる。来世に良いところに生まれたいだろう。ならば私達のところに来て、祭祀に参加せよ。そうすれば自然に悪業が浄化され、清らかな身となり、来世に良いところに生まれることができるぞ」と言うから、来世のことが心配な人々は皆参加したのです。
 当時のバラモンの行った代表的な祭祀は「ホーマ(護摩)」と呼ばれる火祭りです。バラモンは「火を燃やすことで過去世からの悪業が消滅できる」と言うのです。ときには生けにえの動物を火の中に入れます。その焼かれた動物の煙が天に昇り、“天上の神々が喜ばれる”とバラモンは言いました。それに対し、お釈迦さまは「生き物を殺して天上の神々が喜ばれるわけがない。殺生をやめなさい」と言われ、さらに「火に近づいて悪業がとれるなら、一日中火を燃やしている鍛冶屋さんが一番清浄なはずだ。それなのにバラモン、クシャトリヤ、バイシャ、シュードラというカースト制度の中で鍛冶屋は最下層に位置づけられているのはどういうわけであるか」と矛盾を指摘されました。またお釈迦さまは、沐浴についての迷信も否定しておられます。当時の尼僧達の話を集めた『テーリーガーター』の中におもしろい話があります。プンニカー尼というカーストの最下層出身の尼僧の話です。
 ガンジス河でカーストの最高階級であるバラモンが寒さに震えながら沐浴をしているところにプンニカー尼が通りかかり、「何をしていらっしゃるのですか」と問いかけました。「分かっているくせに。沐浴することによって過去世の悪業を洗い流しているのだよ」とバラモンが答えました。それに対してプンニカー尼は言いました。
「それでは、魚や亀や鰐や蛙は生涯、水につかりっぱなしです。ということは、魚や亀や鰐や蛙のほうが人間より解脱しているはずですね。それなのに畜生として人間よりも低く見られているのは何故でしょうか。また、水には何が善業で、何が悪業かを判断する能力があるのですか」
 続けて「風邪を引かないように頑張ってくださいね」といってプンニカー尼が立ち去ろうとすると、バラモンはハッと目が覚めてお釈迦さまに帰依するようになったという話です。

余談ですが、シリア王の大使として、インドのチャンドラグプタ王の宮殿を訪れたギリシア人のメガステネースが旅行記に次のように書いています。
「インドには驚くべきことがある。そこには女性の哲学者達がいて、男性の哲学者に伍して難解なことを堂々と論議している」
 ここで言う女性の哲学者とはプンニカー尼のような尼僧のことです。

 お釈迦さまは人々に「今世、一生懸命に修行して功徳を積めば、来世など何も心配する必要はない」と言われました。
 杉山先生も「今日一日、これだけ徳を積んだら充分だと思えるくらいに徳を積みなさい。そうすれば明日のことはもちろん、ひいては来世のことも何も心配いりませんよ」と言われました。
 今日一日を賢明に生きて、功徳充満の一日としましょう。