親孝行は百孝の基 本当の孝行を心がけましょう

掲載日:2013年6月1日(土)

親孝行のこと 孝は百行の基

昔から「孝は百行の基。一孝立ちて万全これに従う」と言われてきました。百行の基とは、さまざまな善い行ないの基礎になるということで、孝心なくして善い行ないはないということです。

「あの人は親不孝だけど、ものすごく善根功徳を積んでいる」ということはあり得ないということです。

「一孝立ちて万全これに従う」とは、親孝行な人は自然にいろいろな善いことが出来て、徳が集まるということです。

日本では、昔から親孝行はたいへん尊ばれてきました。これが戦後になって、アメリカの占領政策で少し様変わりしてきたという説が昨今の教育者の間で言われています。

テレビの「暴れん坊将軍」で有名な徳川幕府・八代将軍吉宗は実は大変な名君で、享保の改革では幕府の財政を立て直し、そのお陰で徳川幕府が長く続いたとも言われています。その吉宗に次のような逸話があります。

  鷹狩での出来事

ある時、吉宗が鷹狩に出かけました。将軍が鷹狩に出る時には、大名行列の何倍もの行列が続いたと言います。その時、「将軍様を一目見てみたい」という庶民が大勢街道に出ていました。

行列がある村を通り過ぎる時、母親を背負った若者がいました。吉宗がその姿を見て「どういうことか村の者に聞いてくるように」と家来に言うと、村の顔役が「あの男は有名な孝行息子で、母親が『冥土の土産に一目将軍様を見たい』と言うので、遠方から背負ってきたそうです。本当に孝行な男です」と言いました。それを聞いた吉宗はその若者にたいそうな褒美を取らせました。

次の年も吉宗は、同じ所に鷹狩に出かけました。同じ村を通りかかると、今度は違う若者が老女を背負っていました。また吉宗が「どういうことか」と家来に尋ねさせると、村の顔役が「あれは駄目です。去年の話を聞いて、普段は家にも寄り付かないのに、褒美欲しさに母親を背負って連れて来たのです。

あんな者に褒美をやっては癖になります」と言いました。吉宗はそれを聞いて「いいではないか。真似事でも善いことをしているのだから褒美をやれ」と褒美を取らせました。すると、その村の者は皆、親孝行をするようになり、そのうち孝行村として有名になったそうです。

「真似でもいいから褒美をやれ」という吉宗の寛大さ、さすが名君です。

  孝経のこと

聖徳太子の時代、中国から『孝経』という儒教の経典が渡ってきました。奈良時代の孝謙天皇の頃には「一家に一巻必らず『孝経』を持つように」という詔があったと言います。

その後、平安時代の淳和天皇の御代には、皇太子が読み書きを始めるのは『孝経』からだったと言います。

鎌倉時代にも、将軍の若君の読書始めは『孝経』からとなり、江戸時代になると、各藩の大名の若君の読書始めも『孝経』からというようになっていきました。宮中から始まったことですが、やがて庶民にも伝わり、明治時代には一般にも広く読まれるようになりました。

『孝経』は、孔子が弟子の曾子に語ったことが一本の巻物になったものです。

最初に孔子は「孝はあらゆる徳と称せられるものの根本をなすもので、徳というものも畢竟は、孝に他ならぬものである。故にこの徳の根本が確立して後に初めて、人の踏み行なう道も生ずる。

すべての教えというものは、これから起こってくるのである。すなわち、徳といい、道というも、みなこの孝以外にないのである」と説き始めています。ただ「そんなに難しく考えるな」とも言っています。

たとえば「親から頂いた体だから」と健康に気を付けるのも親孝行であり、日々徳を積もうと思って生活をすれば、それも親孝行になる、ということを言うわけです。そういう話が続いた最後に、親が亡くなった時のことが書いてあります。

「他人が亡くなって葬儀に出席する場合、悲しまなければいけないが、静かに泣くように。しかし、親が亡くなったときは大声で泣くように」とあり、また、「棺はこうしろ」など細かいことも書いてあるのですが、一番大事なのは「親を祀るときは神仏を祀るように」と言っています。そして「命日・お盆・お彼岸などの時には、必ず生前のことをみんなで話しなさい。それが供養になる」ということを言っています。

この孝経は、日本人に大変いい影響を及ぼしたと思います。

  孝行修行

明治の大功労者の一人・渋沢栄一が「修養・積徳の大切さ」を『論語と算盤』という本に書き、「すべての経済活動は道徳的に、修養してやらなければいけない」と言っています。その中で親孝行のことも言っています。

当時、和田豊治という実業家がいました。親孝行で有名な人でした。渋沢はこの人をほめ、表彰して「親孝行は大事なことだ。親孝行者はこんなにも繁栄するということを、みんなに広めよう」と、大宴会を催しました。その時、自ら『孝経』を一巻書写して贈り、こんな話をしました。

それは、石門心学にある「孝行修行」という話です。石門心学は、先の徳川吉宗の頃から広がり始めた学問で、神道・儒教・仏教からエッセンスを取り入れて、わかりやすく日常の規範としたものです。石田梅岩という人が始めたところから、石門心学と言われています。

近江の国(今の滋賀県)に「孝行は百行の基」と、日夜孝行に励んでいる有名な孝行息子がいました。「もっともっと孝行がしたい」と思い、うわさで「信濃の国(今の長野県)に有名な、天下に名をとどろかすほどの親孝行者がいる」と聞き、一度その人に会って教えを受けてみたいと、近江からわざわざ尋ねて行きました。その時ちょうど、本人は留守で、年老いた母親が一人でいました。

「今、山に薪を取りに行っています。夕方には帰りますから、よければ待っていてもらえませんか」と言われ、奥の部屋に通されました。日が暮れかけた頃、信濃の孝行息子が背中に薪をたくさん背負って帰ってきました。縁にドカッと座り、いきなり「おいおい、おっかあ。ちょっと薪を下してくれ。足が汚れているから洗ってくれ」と言いました。母親に薪を下ろさせ、足を洗わせ、炉端に来ると「おっかあ、今日はちょっと足が疲れたから、もんでくれ」と言います。母親は嬉々としてやっていましたが、近江の孝行息子は「話が違うな」と思いながら奥から様子を見ていました。

足をもみながら母親が「近江からわざわざあんたの事を聞いて訪ねてきた人がいますよ」と言うと「そうかそうか。じゃあお会いしよう」と、近江の孝行息子と一緒に食事をすることになりました。母親が、ご飯と味噌汁とちょっとしたおかずを持って来て、食べ始めたところ息子がいきなり「今日の味噌汁はちょっと辛いし、飯が硬いな」と言ったものですから、とうとうたまらなくなった近江の孝行息子が言いました。

「わたしは貴公が天下に名高い孝行息子だと聞いて、はるばる近江から孝行修行のためにまかり出てきた者だが、先刻より様子をうかがうに実にもって、意外千万のことばかり。ご老母を労わる模様の無きのみか、あまつさえ叱責するとは何事ぞ。貴公の如きは孝行息子どころか、不幸の甚だしきものであるぞ」

すると、信濃の孝行息子が返して言うには「孝行孝行と、いかにも孝行は百行の基たるに相違ないが、孝行しようとしての孝行は真実の孝行とは言われぬ。孝行ならぬ孝行が真実の孝行である。私が年老いた母にいろいろ頼んで、足を揉ませたり、味噌汁やご飯の小言を言うのも、母にしてみたら、息子が山仕事から帰ってくるのを見れば『定めし疲れていることだろう』と、親切にやさしくしてくださる。

その親切を『無にせぬように』と足を伸ばして揉んでもらい、また、客人を供応するについては定めし『不行き届きで息子が不満足だろう』と思ってくださるものと察するから、その親切を無にせぬため、ご飯や味噌汁の小言まで言ったりするのである。何でも自然のままに任せて、母の思い通りにしてもらうところが、世間の人々が私を『孝行息子、孝行息子』と言いはやしてくださる所以であろうか」

この言葉を聞いて近江の孝行息子は「孝行というのは奥が深い。私のしてきた孝行は形だけを求めていた。もっと自然が良かったのだ」と反省しながら近江に帰った、という話です。

これを、和田豊治を表彰する時に渋沢栄一がみんなの前で話したのです。それを聞いて和田豊治は「渋沢子爵から頂いたこの孝経に、今の話で魂が入りました。ありがとうございました」と心からお礼を言ったといいます。

  親不幸の孝行

外山滋比古さんという、お茶の水大学の有名な教授のエッセイの中に『親不孝の孝行』という話があります。

外山さんがある友人と孝行談義になった時、友人が「親に心配を掛けずにちゃんとした生活をして、親の面倒を見る。それが本当の親孝行だ」と言ったのに対して、外山さんは「そればかりでは親孝行ではないな。適当に面倒を掛けるのも親孝行だ」と言い、実例をあげたのです。

知り合いの開業医に大変、親孝行な人がいました。両親は別の所に住んでいたのですが、お母さんが亡くなった時、お父さんが一人で住むのも大変だろうということで「家へ来ないか」と誘ったのですが、お父さんは「住みなれた所がいい。離れたくない」と言うので、毎日仕出し屋に頼んで食事を作らせ、届けさせたそうです。

また、忙しい仕事の合間を縫って奥さんと二人でお父さんを温泉旅行などに連れて行くので、周りが「本当にすごい親孝行だ」とうわさをしていました。お父さんも「本当に孝行息子がいて幸せだ」と言っていたのですが、あっという間に老けこんで亡くなってしまったそうです。

逆の例もあります。戦時中、ある地方の大きな商家の跡継ぎが戦死してしまいました。既に隠居していた老当主のことをまわりは「精神的に打撃を受けてもう駄目だろう」と思いました。ところが老当主は、息子の戦死の報を受けた途端に人が変わったように生き生きと働き出し、商売が大繁盛したと言います。

そのエッセイには、こんな親孝行が一番良いという話も載っています。「孝行修行」に通ずる話です。

あるサラリーマンに田舎に住む両親が時々「寂しい」と言ってくるのです。毎月それなりに仕送りもしているし、何が不満だろうかと考えました。そこで「少し甘えが足りないな。甘えたほうがいいな。親としてはやはり、子どもが甘えていくと誇りが保てるし、幸福だろう」と考えました。

その人は、秋になると実家の庭に柿が生ることを思い出して「おやじ、都会では食べられない、あのおいしい柿が食べたいなぁ」と言うと「何を言ってるんだ」と言いながらも、毎年送ってくれるようになりました。

また、以前父親が息子の住む都会に出て来た時、家で味噌汁を飲んで「こんなまずい味噌汁を飲んでいるのか」と言って帰ったのを思い出し、「田舎の味噌汁が食べたいから味噌を送ってくれないか」と言うと、「また面倒なことを言うなぁ」と言いながら「味噌は古くなると味が落ちるから」と言って、毎月少しずつ送ってくれるようになりました。両親ともすごく弱りかけていましたが、それから元気になって20年くらい長生きしたというお話です。

外山さんは「そういうところに気がつくのが本当の親孝行だ」と言われています。確かにその通りです。

これは親孝行だけでなく、いつもこういう気持ちでやっていくと、人間関係が本当にうまくいくのではないかと思います。