見返りを求めず世のため、人のために……

掲載日:2013年10月1日(火)

魂を磨く道 忘年会での出来事

ずいぶん前のことですが、名古屋地区の忘年会の席で、亡くなられた赤塚さんから「正修上人、あんたはこの世に何しに来やぁた」と聞かれたことがあります。その時は面食らいまして、考え込んでいましたら赤塚さんが「私は丁稚奉公で名古屋に来た14歳の時にこの質問を杉山先生にされた。私は『働きに来ました』と答えた。すると『そうか。よろしい』とお褒めの言葉を頂いた」ということでした。14歳なのになんてすばらしい答えを言われたのだと感心しました。

それ以来、何度も赤塚さんに「正修上人、何しに来やぁた」と聞かれましたが、私も答えを覚えてしまって「働きに来ました」とお答えしておりました。

   魂を磨く

“我々はこの世に何をしに来たか”

これは重要な課題です。いろいろお考えになられると思いますが、正しい答えは「魂を磨く」ためです。この世に生を受けて来た時より魂を磨いて次の世に持っていかなければなりません。一説によると、我々一人一人がそれぞれ「こういう努力をして学び、魂を磨く」という課題をもってこの世に生まれてきているのだそうです。

この世ではどんな人でも病気になりますし、身近な人の死に出会ったり、いろいろな試練に出会います。その試練にその時々、真摯に答えを出していくことが大事です。

ナチスドイツのアウシュビッツ強制収容所から生還を果たした有名な心理学者のビクトール・フランクルは「どんな時にも人生に対して真摯に答え、逃げてはいけない。そうすることによって人生は開けていく。逃げることによってはまったく開けない。病気だろうが、困ったことだろうが何だろうが真正面から受け止めて、乗り越えていかないと人生は意味をなさない」と言っています。

フランクルの考え方はアウシュビッツの中での考え方ですが、あのアウシュビッツの中で人々は、人生に何も期待を抱くことはできませんでした。また、自分以外の人に何も期待できないという絶望感にさいなまれていました。その場にあって「こういう八方ふさがりの困った状況も我々に課せられた試練であり、課題なんだ。これに応えていかなければいけないんだ」とフランクルが言うと、周りの人は口を揃えて「一体どうやって応えるんだ。誰も助けに来てくれないし、何ともしようがない。明日殺されるかもしれない。

そういう状況で何が課題に応えられるというのだ」と言いました。するとフランクルは「君たちはいつも何かをしてもらおうと期待しているだろう。そうじゃない。『自分が世の中から何を期待されているか』を考えろ。そうした時に自分の役目というものが見つかる。自分のしなければいけないことが見つかる。こんな状況でも自分がするべきことが見つかるんだ」と励ましました。そうしてフランクルも周りの人々も「この困難な状況でも何か切り開くための道はある。何か自分には生きる意味があるんだ」ということを見出して、答えを出しながら生きたそうです。

今の世の中で我々がこういう状況になることはまずありませんが、日常の生活の中で腹の立つこと、嫉妬することなどいろいろ起こります。杉山先生は「どんな時でも堪忍」と言われたのですが、これも課題なのです。腹の立つことが起きた時に堪忍できるかどうかが、魂を磨くための課題と言えます。

また「嫉妬」ということですが、たとえば誰かが成功してうまくいっている時など、嫉妬心が起きやすいものです。「うらやましいな」と思っているうちはいいのですが、そのうち「今度はうまくいかなければいいのに」と思ったりするものです。そういう、誰かが成功してうまくやっている時「良かったね」と心から言えるかどうか、これが課題と言えます。その時「今度は失敗するといいのに」とか「いつか病気でもすればいいのに」ということを思うと、これは「課題をうまくクリアしていない。答えを出していない」ということになります。

   マスターズでの出来事

毎年4月の第2週に、アメリカのオーガスタナショナルで行なわれるゴルフのマスターズという大会があります。今年の試合でアダム・スコットという若手の選手とアンヘル・カブレラというベテランの選手が同スコアで並び、プレーオフになりました。プレーオフの2ホール目でカブレラ選手がセカンドショットを打ち、少し遠かったのですがグリーンに乗りました。次にアダム・スコット選手が打ったショットはピンの近くに行きました。

私がカブレラ選手だったら、ゴルフで一番栄誉のある試合なので絶対に勝ちたいですから「ああ、やられたな」と思うに違いありません。ところがカブレラ選手は違いました。「ナイスショット」と大きな声で言ったのです。「こんな場面で相手をほめることができるなんてすごいな」と思いました。すると、言われた方のアダム・スコット選手は親指を立て、「ありがとう」という合図をしました。こういうスポーツマンシップはいいなと思います。

ある本で読んだことがあるのですが、「ナイスショット」と声を掛ける時、相手を心からほめることができると、自分も次に良いショットを打ちやすくなるような精神状態になるのだそうです。ですから、ゴルフだけでなく他のことでも、誰かが成功した時、心から素直に「すばらしいですね」と言うことができると、自分もそういう状況になりやすい精神状態になるのだろうと思います。

逆に、人の成功を妬んで「今度は失敗すればいいのに」と思ったり言ったりすると、自分がそうなりやすい状況を作ることになります。

   悪世に生まれて広くこの経を演ぶる

人はそれぞれこの世に、いろいろな課題を持って生まれてくるのですが、生まれつきハンディキャップを持って生まれてくる人がいます。皆さんご存知の乙武洋匡さんは生まれた時から両手足がありませんでしたが、非常な努力によって、またご両親や周りの方々の協力によって、普通の人以上の社会活動をしてみえます。

最近私が知った佐野有美さんという人、乙武さんより若い女性ですが、乙武さんと同じように両手足がありません。その佐野さんが今、プロの歌手として、年間百回以上も全国で公演をして大活躍してみえます。

佐野さんは特別な学校に行かず、小学校・中学校・高等学校と、健常者と同じ学校に行かれました。なんと、両手足がないのに百メートルくらい泳ぐこともできるそうです。家族や先生、友達の協力でできるようになったのですが、普通、両手足がないのに泳げるなんて考えられません。佐野さんは、どんな時もあきらめない精神の持ち主だったのです。

この人の一番の特徴は、明るいということです。どんな困難な試練があっても明るいのです。高校時代には両手足がないのにチアリーダーをしてみえました。車いすに座っていたのですが、この人が笑顔でいるだけで、みんなが盛り上がったと言います。今はプロの歌手として何をしているかというと、全国を回って人々を励ますことをしてみえます。世の中の人を、両手足がない、一級の障害をもつ佐野さんが励ましてみえるのです。すごいなと思いました。励まされるならわかりますが、励まして回っているのです。

佐野さんとか乙武さんの話を見たり聞いたりする中で思ったのが、法華経の法師品に説かれることです。

「法華経をこの世に真に弘める人は、清浄なる業報を捨て、本当は徳が高いのにそれを天に預けてわざわざ濁悪な世に来る」

乙武さんや佐野さんはこういう人だと思います。本当はそんな不自由な体でこの世に生まれて来る必要はないのに、我々に人生の本当の意味を知らしめるために、わざわざそういう体になって生まれてみえたに違いありません。

   スウェーデンボルグの体験

スウェーデンが生んだ大科学者であり大神秘家のエマヌエル・スウェーデンボルグという人が、今から250年以上前、生きながらに霊界を見てきたと言っています。我々と同じように普通の生活をしながら、天国とか地獄を見てきたと言うのです。その様子が何冊もの本になっています。

その中に興味深いことが書いてありました。天界にいる人たちは「未開人」が多く、この世ですごい難行苦行をした人たちはあまりいないということです。理由は、この世で難行苦行をして、死後あの世にいった人たちは、「自分たちはこの世で苦行した報酬で天国に行けると思っていたのに、実際天国に行ってみるとそういう人はほとんどいない。『何だ、違ったな』と思って天国から去って行く」というのです。

さらに「無学だが、素朴な人たちの集まった天界で彼らを見た時、彼らの姿は光り輝いていた。私がここで最も印象に残ったのは、外面の物がきれいに拭い去られ、最高位の霊に導かれて彼らが暮らしていたことである。彼らは人間だった時には無学だったとは言え、今は有名な学者などより高い知恵に満ちていた。難行苦行したとか、すごい学問を修めたという人よりずっと輝いて見えた。

なぜかというと、その『未開人』たちは『ただただ人に親切にしよう』とか、『人を励まそう』ということだけを考え、それだけで生きてきた人たちで、何かをして、それによって自分たちは天国に生まれたいとか『報酬』といったことは一切考えない人たちだった。だからそういう人たちは一番上の天国にいるのだろう」と書いています。そして、その天国にいる最高位の霊から「時が下るにつれて次第に悪い時代になっている。だから最上の天国に至れる霊は時代とともに少なくなっている」と聞いたということです。

要するに、文明が進歩すればするほど人間が下劣になったということを、最高位の霊が言っているのです。

素朴に、世のため人のために見返りを求めず何かをすることが、魂を磨く一番の方法ということになるのだと思います。