いつ「死」が来てもいいように今日一日積極的に生きましょう

掲載日:2013年11月1日(金)

積極的な生き方 「死」を認識

誰でも人の死を身近に見たり聞いたりすると、「死」というものが実感として感じられるようになります。若い頃は誰も「死」についてあまり考えません。自分の命は永遠に続くようにさえ感じるものです。しかし、年を重ねるに従ってだんだん「死」を身近に感じるようになってきます。特に身内を亡くしたりすると意識せずにはおられませんが、「死」を意識するということは、より良く生きるためには必要なことだと思います。

「生死一如」という言葉があります。〝生きる事と死ぬ事は表裏一体〟ということです。日蓮聖人は御遺文の中で「臨終の事を習うて後に他事を習うべし」とおっしゃっておられます。つまり、「死」をしっかり認識して、後悔なく生きてゆくことが大切だ、と言われているのです。

   意識することによる違い

道元禅師が興味深い話を残しておられます。弟子から「人生に成功する人としない人がいるのはどうしてですか」と尋ねられ、「努力をする人としない人の違いだ」と答えられると、それを聞いた弟子は「努力する人としない人の違いは何ですか」とさらに尋ねました。すると「努力する人は死があるということをよく知っている。努力しない人は、死があるということをはっきり認識していない」と答えられました。つまり努力する人は、生きている限られた時間に頑張らなければならないと思える人で、努力しない人は、死をはっきり認識していないから永遠に命が続くように思い、何事も「いつでもできる」と、努力を怠ってしまうのです。

   いつ死が来てもいいように

中村仁一さんというお医者さんが、おもしろいことを提唱しておられます。それは「余命六か月と言われたらエクササイズ」というものです。その内容は「『もしガンで余命六か月と言われたら』と考える。その時にしたいことを書き出して実行する。これをその日が来るまで一定期間ごとに繰り返す。そうすることにより、最後に目をつぶる瞬間、やり直したいことや後悔することは激減しているであろう。したがって『満足』の最後が迎えられるのではないかと思うのである」というものです。

緩和医療に携わっておられる大津秀一さんというお医者さんも「死に臨んで全く後悔がないという人はいない。しかし、後悔しなくてもいいようにと普段から考えて行動し、一生懸命生きたらどうだろうか。おそらくそうではない人と比べて、全く違う人生が開けるのではないだろうか。死期が迫る時、人は必ず自分が歩んで来た道を振り返る。その道こそが己の財産そのものであり、その道が納得のいく道であれば、微笑みをもって見納め、その先に足を踏み出すことができるであろう」と言われています。

大津さんが書かれた『死ぬときに後悔すること二十五』という本の中から、死に臨んで人が後悔することを六つほど紹介します。

 一、「会いたい人に会わなかった」

日本人は美意識が強く「自分のこんな衰えた姿を人に見せたくない」というプライドがあるけれども、最後には「どんな姿でも会っておけばよかった」と思うことが多いそうです。

 二、「行きたい場所に旅行しなかった」

体が弱ると旅行もなかなかできないので、行きたい所があれば行っておいた方がいいということです。

 三、「他人に優しくしなかった」

日常をふり返ってみて、後悔しなくていいように、人には親切に優しくしたいものです。

 四、「おいしいものを食べておかなかった」

「病気になると口がまずくなる」と言いますが、おいしいものを食べてもおいしく感じられなくなるようです。だから、おいしく感じられる内に食べておいたほうがいいし、家族や友人と一緒に楽しく食事をしておいた方がいいということです。

 五、「愛する人にありがとうと伝えておかなかった」

特に男性は「ありがとう、世話になったね」というようなことがなかなか言えないようです。

有名な建築家の黒川紀章さんが亡くなる前に、奥様の若尾文子さんから「私は仕事でしょっちゅう家を空けていて、良い奥さんでなくてごめんなさい」と謝られたそうです。すると「何を言っているんだ。良い奥さんだったよ。大好きだったんだから」と手を握って言われたそうです。このように、自分の気持ちを素直に表現できれば大変結構なことだと思います。

最後に、「家族との関係をより良くしなかった」ということを言われています。

家族との仲が悪かったことは、人生の最後に一番後悔することのようです。だから、わだかまりを無くして家族は仲良くしたほうがいいということです。

後悔をしないように、いつ「死」が来ても悔いがないように生きたいものです。

   ものの見方・心の置き方

最近、会食をさせて頂いた方の話です。その方は五十九歳でとてもお元気ですが、二十代の時に悪性リンパ腫になり、お医者さんに「治る確率はどれくらいですか」と聞いたところ「五分五分」と言われたそうです。五分五分と言われれば、普通の人はかなり不安になると思いますが、その方は「五十%も助かる確率があるのか」と喜ばれ、抗癌剤治療を受けながら体力を落とさないように、病院の屋上で腕立て伏せなどをされていたそうです。今、病気を克服され、大変お元気に活躍されています。

「五分五分」と言われた時、「五分もあるのか」と思えるこの考え方が大切だと思います。物事はやはり、明るい面から見たほうがいいのです。

   良い点だけを見る

ある有名塾の先生が「数学はできるけど英語ができない生徒。また、英語はできるけど数学ができない生徒がいると、親は大体できない方をどうにかしてほしいと言ってくるが、それは良くない」と言っています。苦手な科目に集中すると、結果的に得意な科目も伸びなくなり、逆に得意な科目をさらに伸ばしてゆくと、苦手な科目も伸びていくのだそうです。これを「長所伸展法」というのだそうです。これも明るい面から見た方が良いことを教えています。

   ほめ言葉の力・その一

次のような話があります。

駅など公共のトイレに行くと「いつもキレイに使って頂きありがとうございます」と書かれた所がありますが、これは九州の博多駅で始まったそうです。最初の頃、とにかくトイレが汚かったので何とかキレイに使ってもらおうと「あなたのマナーが問われています」としたところ、もっと汚くなってしまいました。次に「落書きを見つけたら警察に通報します」と書いたら、さらに汚くなってしまいました。そこで、逆に「褒めてみよう」と始めたのが「いつもキレイに使って頂きありがとうございます」でした。この一言でトイレが見る見るキレイになってゆきました。言葉を変えただけで、キレイに使ってもらえるようになったのです。

人は褒められると気分が良くなり、嬉しくなって特別な力を発揮するようになるものです。これも長所伸展法の一つだと思います。

   ほめ言葉の力・その二

オペラ史上最も有名なテノール歌手の一人エンリコ・カルーソーさんは子どもの頃、歌は好きだけど声がとても悪く、音楽の授業で先生にいつも「君は黙っていなさい。君の声は耳障りだ」と言われていました。窓の鎧戸を風が吹き抜けるような聞き苦しい声だったそうです。カルーソーさんは家に帰ってそのことをお母さんに話しました。するとお母さんは「先生が何と言っても、お母さんはお前の声が天使の声に聞こえるよ。お母さんはお前の歌を聞くことだけが人生の楽しみだから、今晩も歌っておくれ」と言いました。

カルーソーさんは母子家庭で二十一人兄弟でした。そのうち十八人は貧しさのために亡くなり、カルーソーさんを含め三人しか生き残りませんでした。お母さんは子どもを育てるために、靴も買わずに裸足で生活をするほどでした。そんな献身的な優しいお母さんでしたが、カルーソーさんが十五歳の時に亡くなりました。それ以来、毎日毎日カルーソーさんはお母さんの写真に向かって歌を歌いました。実際にカルーソーさんの声は良くなかったようですが、お母さんの言葉を胸に、毎日お母さんの写真に歌いかけることで、本当に歌が上手になっていったのです。最後には世界中のオペラファンが、カルーソーさんの死を嘆き悲しむほどの、世紀の大テノール歌手になったのです。

   世渡りは愉快に

東洋の聖者と言われた新渡戸稲造博士が『世渡りの道』の中で次のように言っておられます。

「物事には明暗の両方面がある。私は光明の方面から見たい。そうすれば、おのずから愉快な念が湧いてくる」

「人生なるものはめいめいの心の置きよう、すなわち心のもちようによって、どうにでも取れる。世の中がうるさいと思えば、いたたまれないほどにうるさいし、結構だと思えば、御礼の申し上げようもないほど結構になる。ゆえに私は、世に処するに善意をもってし、チアフル(愉快)に世渡りしたい」

新渡戸博士のように世に処したいものです。