恩を送る

掲載日:2022年8月1日(月)

 古来より日本人は「孝行」をとても重んじてきました。日蓮聖人の御遺文『開目抄』にも次の一節があります。

「孝と申すは高なり、天高けれども孝よりは高からず。又孝とは厚なり、地厚けれども孝よりは厚からず。聖賢の二類は孝の家より出でたり」

 戦前の『修身』の教科書には「孝は百行の基」とか「一孝立ちて万善これに従う」というような教えがありました。
『修身』の三年生の教科書には稀代の農政家、二宮金次郎(尊徳)の孝行話が載っています。
「二宮金次郎は家が大層貧乏であったので、小さい頃から父母の手助けをしました。金次郎が十四歳の時、父が亡くなりました。母は暮らしに困って、末の子を親類へ預けましたが、その子のことを心配して毎晩よく眠れませんでした。金次郎は母の心を思いやって、『私が一生懸命に働きますから、弟を連れ戻してください』と言いました。母は喜んでその晩すぐに親類の家へ行って、預けた子を連れて帰り、親子一緒に集まって喜び合いました。孝は徳のはじめなり」

 日本人に大きな影響を与えた儒教の経典に『孝経』があります。聖徳太子の頃に渡来し、その後、奈良の孝謙天皇は天下に詔され、家毎に『孝経』を一巻蔵せしめられたということです。降って平安時代には皇太子の読書始めに『孝経』が用いられたそうです。
『孝経』は孔子が弟子の曽子に説いたものだといわれています。冒頭には次のように書かれています。
「およそこの孝というものは、あらゆる徳と称せられるものの根本義をなすものであって、前に述べた至徳というものも、畢竟は孝に外ならぬものである。故にこの至徳の根本が確立して後に始めて人の履み行う道も生じて来て、従ってすべての教化というものも、是から起こって来るのである。即ち至徳といい、要道というも、皆この孝ということ以外にはないのである」

 孔子によれば、「親孝行は徳の行いの根本的なものだ」というのです。また「孝行が必ずしも高尚深遠なものだと思う必要はない。たとえば、飲食の不摂生をせず、病気にならないように自分の体を大切にすれば、それが親孝行になる」といいます。孝道の第一歩は親からもらった体を大切にすることなのです。そして「卑近な第一歩から踏み出し、その後に社会に出て人格を陶冶し、人の範となり、自分の名とともに親の名を高めることが孝道の成就である」と書かれています。
『孝経』の最後には親の死につかえる道が示されています。
「野辺への葬送に当っては、声を張り上げて泣き、心の限り精の限りに哀しみを尽くすように」と書いてあります。
 さらに「墓を建てるにあたっては良い場所を選び、神仏を祀るように供養せよ。そして、四季折々、命日その他の時々に墓に足を運び祭事を行い、みんなで故人を偲び合うように」とあります。故人を語ることはご供養になるのです。
 法事の時に「人間は二度死ぬ」という話をよく聞きます。一度目は肉体の死、二度目は忘れ去られてしまうこと。それゆえ、「法事の際には故人のことを偲んで語り合いましょう」というのです。これが孝行であり、ご供養になるのです。

 法音寺の始祖・杉山辰子先生も御法話集の中で孝行について次のように述べられています。
「親孝行には上・中・下がある。下は衣食を施す。中は親の心に従う。上の親孝行は、親が生きている時には法華経の話を親にして一緒に功徳を積み、親が亡くなってからは法華経を人に弘め、実行し、その功徳を回向する。これが上の親孝行である」
 杉山先生は「よく世間では『孝行したい時に親はなし』というけれども、そんなことはない。親が亡くなってからでも法華経を広宣流布し、実行すればそれは充分な親孝行である」と言われています。
 この孝行の話を御開山上人は、若い頃に聞いて、〝親孝行しなければ〟と強く思い、上の親孝行を目指されたのです。ところが、御開山上人のお父さんは非常に頑固な人で、「自分はお前より法華経のことはよく知っている」と言われたそうです。
 父・徳太郎さんは、鈴木家の元々の菩提寺であった禅宗のお寺のご住職さんから、「一番尊いお経は法華経だ」と聞いたことから自分で経本を買い求めてお経を読むようになり、自ら書き下し文を書いて父親に読んで聞かせることもありました。また、日蓮聖人の御遺文の勉強もしていたそうです。そして、子守歌代わりに子ども達にお経や御遺文を読むほどだったそうです。
 それゆえ、御開山上人が杉山先生から聞いた「法華経の実行は慈悲・至誠・堪忍ですよ」という話をしても、「法華経のことはお前よりよく知っている」と相手にされなかったのです。
 徳太郎さんは、鈴木家の法事の際に僧侶の読経の間違いを自信満々に指摘したこともあったそうです。
 御開山上人はどうしたら父親に杉山先生のお話を聞いてもらえるかと杉山先生に相談されました。すると杉山先生は言われました。
「まず、お父さまの心に従うことです」
 確かに相手が心を開かなければ、何をどのように話しても聞いてはもらえません。そこで、御開山上人は「中の親孝行」を実践されたのです。一年、二年とお父さんの言うことを「ハイ」と二つ返事で聞かれたのです。
 徳太郎さんは非常に厳格な人でしたので、最初のうちはとても難儀をされたようですが、御開山上人は堪忍強く続けられたのです。するとある日、徳太郎さんが言われたそうです。
「お前は日本中で私の意見を一番よく聞いてくれる者だ。私は良い息子を持った。そしてお前は良い先生から教えを受けた。私は常に法華経を読み、諳んじ、訓読して、父親に読んで聞かせたものだ。お経を読むことはお前に負けないと思っていたが、法華経が毎日の暮らしに一々応用できる教えであることを知らなかった。本当にありがたいことだ。これからも聞かせてくれ」
 徳太郎さんはこのように言って御開山上人の話を楽しみにしておられたそうです。
 やはり上・中・下とある親孝行は、いきなり上からではなく、下から順番に進めていかなければいけないようです。
 御開山上人はその後、杉山先生の弟子となり、繁昌していた商売をたたみ、家を出ることになります。それに対してお父さんは「お前の好きなようにして良い」と全く反対されなかったそうです。長男が家を守るということが一大事だった時代の話です。

 関支院の吉橋宗敬上人からうかがった話です。

 御開山上人が僧正になられた時のことです。僧正になると、紫の衣に金の紋がついた緋色の袈裟をかけるのですが、ある日、御開山上人が「新しくつくった紫の衣と緋の袈裟を用意するように」と言われました。その衣は、仕付け糸はとってありましたが、御開山上人はまだ袖を通されてはいませんでした。
 吉橋上人は、〝それを持ってどちらに行かれるのだろう。どなたか立派な方の法事でもあるのだろうか〟と思われたそうです。そしてお供をして、着いた先は寄木のご生家だったのです。その時、徳太郎さんは病の床に伏しておられましたが、御開山上人は枕辺で「お父さんのお陰で法華経にご縁ができ、杉山先生に出会い、僧侶となることができました。そして僧正に昇叙されました。ありがとうございます。今日は僧正の衣を持ってきました。まずお父さんに着てもらいたかったのです」と言われました。
 御開山上人が、徳太郎さんの背中を起こし、衣と袈裟を掛け、「お父さんは私よりもずっと立派な大僧正です」と言われると、徳太郎さんは「ありがとう」と涙を流されたそうです。徳太郎さんはその後、「生家の土地も建物もすべて布教に使うように」という遺言を残されました。
 御開山上人は当時、昭徳会や日本福祉大学でお金が必要で、なかなか布教所を作ることができませんでしたが、先代日達上人の時代になって今の開基堂ができたのです。

「知恩報恩」は仏道修行の根本です。その中でも親孝行は一番の「知恩報恩」ですが、親に恩を返すのはなかなかむずかしいことです。充分に親に恩を返したという人は中々いないと思います。

「恩送り」という言葉があります。
 江戸時代の文献にも出ているそうです。
 誰かに恩を受けたら、別の人にそれを送る。そして、その送られた人がさらに別の人に渡す。そうして恩が世の中をぐるぐる回っていくことを指しています。
 親から受けた恩を、子や孫や縁のある人達に送っていくというのもすばらしいことだと思います。

 仏教学者のひろさちやさんが若い頃、インドに一人旅をしている最中、道に迷われたことがあったそうです。そこで道端でたむろしているインド人の一人に地図を渡して道を尋ねました。
 するとそのインド人は、「そこへ行くのはむずかしいぞ。しかしお前は運がいい。俺が案内してやる」と片道40分以上かかる道中を同行して案内してくれました。目的地に到着して、お礼にお金を差し出したところ、そのインド人は「いらない」と言ってそのお金を受け取りません。
 しかしその後、インド人は「俺はお前に親切にしたな」と言いました。
〝お金が足りないのだろうか〟と思って、お金を足して渡そうとしたら、また受け取りません。
 そのやりとりを数回繰り返した後にそのインド人が言いました。
「お金がほしいのではない。お前は俺の質問に答えろ。俺はお前に親切にしたな」
「ええ、あなたは確かに私に親切にしてくれた。だから私はお礼をしようとしている」
「お金はいらない。俺はお前に親切にした。この先お前は誰かに親切にしてやってくれ。それが俺に対する礼だ」
 これぞ「恩送り」ですね。

 今から20年程前に『ペイ・フォワード』(恩送り)というアメリカ映画がありました。

 学校で先生が生徒達に言うのです。
「もし自分の手で世界を変えたいと思ったら、君達は何をしますか」

 主人公のトレバーは恵まれない少年でした。お母さんがアルコール依存症で、お父さんは暴力をふるう人でした。トレバーはシモネット先生に「世界を変えるなら、自分が受けた恩を、全然関係のない三人の人に返そうと思う。そして、その三人が同じようにしたら世界は変わると思う」と答えます。そして、トレバーは早速、ホームレスのジュリー、シモネット先生、クラスのいじめられっ子の三人にペイ・フォワードを実行することにしました。最初は挫折もありますが、ペイ・フォワードの輪がどんどん広がっていきます。
 結末には涙される方も多いと思いますが、一度は見ておいてよい映画だと思います。

 最後に昨年私が出会った方の話です。東京支院に行った時に、80歳過ぎの女性が正看護師の免状を持ってこられました。
「見てください。正看護師の免状です。本当は御前さま(御開山上人)に一番見ていただきたかったけど、いらっしゃらないので、山首上人に代わりに見ていただきたいのです」
 経緯を聞くと、その方は児童養護施設・駒方寮の出身で、御開山上人を父と慕って育った方でした。
 当時、横浜で家政婦紹介所をしておられた重政さんという篤信の女性がいました。御開山上人の紹介で、その方はその家政婦紹介所で働くようになったのです。重政さんは御開山上人からの紹介ということで、特に目をかけてその方の面倒を見られたのです。その後、重政さんの援助により、准看護師になることができました。また重政さんの紹介で結婚もされました。その後、50歳台で法政大学文学部史学科を卒業されました。さらに70歳台である大学の看護学部を卒業されました。そして遂に正看護師の試験を受けて合格されたのです。
「今から正看護師になって何をされるのですか?」と私はその方にお聞きしました。
 するとその方は言いました。
「御前さまや重政さんにたくさんの恩を受けたけれど、恩を返せていないのです。今からでも遅くはないと思い、その恩を少しでも返すために、正看護師になって世の中の人に尽くしたいと思ったのです。今、コロナで世の中が大変です。ワクチンの接種会場は人手不足ですから、まずはそこでお手伝いをしようと思います」
 その方は接種会場でワクチンの希釈を担当されたそうです。
 その後、しばらくしてから、私がまた東京支院に行ったところ、その方が封筒を持参してこられました。封筒の中には、ワクチン接種の仕事で得た報酬の全額が入っていました。
「私のような子ども達のために使ってください」
 私は感動しました。そして〝あぁ、こういう恩を送る人にならなければ〟と思いました。