昭和天皇の涙

掲載日:2022年5月1日(日)

3月16日に東北で、最大震度6強の地震がありました。東北新幹線が脱線するほどの強い揺れでした。これも2011年3月11日の東日本大震災の余震の内だそうです。あの震災後、さまざまな宗教宗派の方々が慰霊に現地を訪れました。日蓮宗のある布教師の方に聞いたのですが、とにかく話を聞いて欲しいという方が大勢おられたので、傾聴ボランティアを始められたそうです。以前、先代日達上人が無財の七施に「耳施を加えると良いのではないか」と言っておられたのを思い出しました。〝人の話を親身になって丁寧に聞く〟ということは立派な菩薩行なのです。
 以前、こんなことがありました。私の娘が医学部に通っている時に、いろいろな実習がありました。各科を回った後、老々介護のお手伝いをする実習がありました。娘がうかがったお家は、おばあさんが寝たきりで、おじいさんが介護をしておられました。「お手伝いにきました」と娘が言うと、おじいさんが「何もしなくていいから、わたしの話を聞いてほしい」と言われたそうです。毎回おじいさんがいろいろなお話をされ、娘は相槌を打ちながら聞くだけだったのですが、おじいさんにはとても喜ばれたそうです。

東日本大震災の傾聴ボランティアの方から聞いたお話ですが、「幽霊を見た」という方が多数おられたそうです。
 あるタクシー運転手さんのお話です。夏なのに冬の格好で乗ってきて、〝変な人だな〟と思っていたら、「津波で流された町に行ってくれ」と言うので、そちらに向かうと、途中でその乗客がいなくなっていたということです。こういう話がたくさんあったそうです。中には「幽霊でもいいから家族に会いたい」という方もいらしたそうです。
 霊を慰めるために大勢の宗教家の方々が、現地に行かれましたが、何と言っても一番の慰霊は天皇・皇后両陛下(現上皇・上皇后陛下)が行幸啓されたことだと思います。
 こんなお話があります。太平洋戦争末期、小笠原諸島の硫黄島は日米両軍による激戦地であったことが知られています。約2万1千人の日本兵が島に行き、生き残ったのは1千人、2万人の兵士がそこで亡くなったのです。さらにその2万人のうち、遺骨として故郷に帰ることができたのは8千人です。1万2千人の方はいまだにあの島に取り残されているのです。
 島には一本の滑走路があります。これは普通の滑走路ではありません。硫黄島の戦闘がまだ続いている時に、アメリカ軍が日本兵の死体を片づけないままアスファルトを流し込んで作ったものです。今も一般人は島に行くことはできません。
 入島できるのは海上自衛官と特別に防衛省から許可を得た人だけです。彼らは日常的に幽霊を見るそうです。食事をしていると隣で同じようにご飯を食べている旧日本兵の姿を見たり、会議をしていると同じ場所で会議をしている将校達の姿を見ることもあるそうです。また夜中に軍靴の音が聞こえたり、うめき声が聞こえたりもするそうです。
 それが平成6年の2月12日に天皇・皇后両陛下が慰霊のために硫黄島を行幸啓されると、この日を境に心霊現象が激減したそうです。
 この時、天皇陛下は次のような御製を作られました。

  精根を 込め戦ひし 人未だ
    地下に眠りて 島は悲しき

 これは、司令官・栗林中将の大本営に対する訣別電、「国のため 重き務めを 果たし得で 矢弾尽き果て 散るぞ悲しき」の「悲しき」を受けた歌だとされています。

 最近読んだ『昭和天皇物語』という漫画に関東大震災の場面がありました。関東大震災の死者・行方不明者は10万5千人余りにのぼりました。東日本大震災は約1万8千人です。いかに被害が甚大であったかがわかります。この時、ご病気の大正天皇の名代として皇后の節子妃殿下がお一人で行啓され、被災された人々を励まされました。人々は非常に勇気づけられたということです。

昭和天皇の慰問慰霊のお話をします。
 太平洋戦争に負けて日本は焼け野原になりました。昭和20年3月10日の東京大空襲では一晩で11万5千人以上が亡くなり、負傷者は15万人を数えました。また原爆では広島で約14万人、長崎で約7万5千人が亡くなりました。日本国民は絶望のどん底にいました。その日本国民を励ますため、また慰霊のために昭和天皇は全国津々浦々を8年半かけて巡幸されました。陛下の御心の内には国民に対して詫びるお気持ちもおありだったそうです。軍部の暴走だったとはいえ、その責任を感じておられたのです。また一刻も早い復興を願ってのことでした。
 当時は車中で寝泊まりされることも多々ありました。身辺の警護もままならないような状態でしたが、陛下は「身の危険など構わない。疲れることなども心配せずともよい。行かなければならないところへはどこへでも行く」とおっしゃったそうです。その巡幸の中のエピソードを一つ紹介したいと思います。
 昭和24年、九州の佐賀県にある因通寺というお寺での出来事です。そこには戦争罹災児救護のための「洗心寮」がありました。そこで40人余りの引き揚げ孤児と戦災孤児が肩を寄せ合って暮らしていました。洗心寮には小さく区切られた部屋がいくつもありました。その一つひとつの部屋に陛下は入っていかれ、子ども達にやさしく声をかけられました。ある部屋に3人の女の子が並んで座っていました。真ん中の女の子は二つのお位牌を持っていました。

「お父さまとお母さまのお位牌?」
「はい、父と母の位牌です」
「どこでお亡くなりになったの?」
「父はシベリアで名誉ある戦死をしました。母は引き揚げの時に病気で亡くなりました」
「お寂しい?」
「私は仏さまの子ですから、寂しくありません。父に会いたくなったら、母に会いたくなったら、私は仏壇の前に座ります。そして、そっと〝お父さま、お母さま〟と呼びます。すると父と母は私を優しく抱いてくれます。だから私は寂しくありません」

 女の子はそこに来るまでのことを陛下にいろいろと話しました。陛下はその話をずっと「うん、うん」と聞かれた後、「あぁ、仏さまの子はお幸せだね。これからも立派に育っておくれよ」と、右手で女の子の頭をやさしくなでられました。その時、陛下の目からはらはらと大粒の涙がこぼれ落ちました。その女の子は陛下を見上げて「お父さま」と言いました。その場にいた人達は皆、もらい泣きしたそうです。陛下は喜怒哀楽をあまり出されない方だったそうです。それは「天皇たる者は、みだりに喜怒哀楽を現してはならない」という帝王教育によるものでした。
 大正天皇がご病気の時に陛下が摂政として馬車で皇居に向かわれる途上、ステッキ銃を持った暴漢が襲ってきて、いきなり発砲しました。弾が当たって馬車の窓が割れても、陛下は微動だにされなかったそうです。その後、皇居に着いて何事もなかったかのように、公務に就かれたというお話があります。そのような陛下が涙を流されたのは余程のことです。お帰りの時には「また来るよ。今度はお母さん(皇后陛下)と一緒に来るからね」と涙ながらにおっしゃったということです。後に陛下から一首の歌が因通寺に届けられました。

  みほとけの 教へまもりて すくすくと
    生ひ育つべき 子らに幸あれ

 当時のご住職がこれに感激して、未来永劫この歌が残るようにとこの御製を梵鐘に刻み込みました。今でも因通寺ではその梵鐘の音が響き渡っているそうです。
 初代神武天皇以来、歴代の天皇は国民を「大御宝」と呼ばれ、国民のために祈り、国民一人ひとりを子どものように考えてこられました。
 最後に『日本書紀』に残されている有名な「民のかまど」というお話を紹介します。ある時、第16代仁徳天皇が高台から民の住む町々を見下ろしながら、「朝ご飯の時間なのに、かまどの煙が上がらない。どうしたことか」とおっしゃいました。当時、国土は荒れ、とても厳しい財政状況にありました。朝ご飯のための薪も焚けないほど民は困窮していたのです。
 状況を聞かれた仁徳天皇は、すぐに「三年間の労役や税金をすべて免除する」と詔を出されました。そして、仁徳天皇自らも質素に暮らされ、宮殿の雨もり修理も着物の新調もされませんでした。三年が経ち、かまどからのぼる煙を見て安堵された仁徳天皇は次のような御製を詠まれています。

  高き屋に 登りて見れば 煙立つ
    民のかまどは にぎはひにけり

 民のかまどから煙が立ちのぼるのを喜ばれたお歌です。その秋「我々はもう豊かになりましたので、荒れた宮殿を修理するために税金を納めさせてください」と民が申し上げました。ところが、仁徳天皇は「まだだ。もう三年免除する。その間に十分な力をつけ、その後に存分に国のために働いてほしい」とおっしゃいました。そしてその三年後、ようやく宮殿の修理が始まりました。
 日本は「君民一体」のすばらしい国です。
 現在ウクライナでは戦争が続いております。多くの人々が亡くなり、負傷しています。また、多数の難民も出ています。私達日本人は今享受している平和と幸福に感謝するとともに、一刻も早くウクライナに平穏な日常がもどるよう、お題目を唱えながら祈り続けなければいけないと思います。