合格も不合格も徳次第 徳を積み重ねましょう

掲載日:2014年3月1日(土)

功徳と罪障 人生はやり直せる

今日は受験の話をしようと思います。

私が受験生だった頃、入江伸という方が主宰する「入江塾」がテレビや雑誌でよく取り上げられていました。そこはスパルタで、少しでもできないと「ばかもの!」と叱られ、時には手をあげられることもありました。気の弱い生徒は泣きながら勉強をしていました。しかし、入江先生の熱血指導のおかげで多くの生徒が「灘」や「ラサール」といった超一流の進学校に合格してゆきました。有名な芸能人のラサール石井さんも入江塾の出身です。

石井さんがラサール高校に合格した時、入江先生の所にお礼の挨拶に行くと先客がいました。その生徒は不合格の報告に来ていたのです。普通不合格の生徒は電話ですませるものです。

「先生、申し訳ありませんでした。あんなに先生に一生懸命教えてもらったのに、私は合格することができませんでした」

「何を言っているんだ。受験に落ちたことぐらいたいしたことないぞ。人生はそんな甘くないというが、実は人生は大甘なんだ。人生は何度でもやり直しができるんだ。試験に一回落ちたことぐらい屁でもない」

そんな会話を交わす二人を見ていた石井さんは、恐かった入江先生のことが大好きになったそうです。

入江塾の教育のすばらしい一面を垣間見る思いがいたします。

   守護を受ける

受験に当たっては、多くの方が合格祈願のお守りを申し込まれます。特別な力を持った何かに頼りたいという思いが、どなたの心にもあるのだと思います。また「どうしたら受かりますか」とよく尋ねられます。私自身も受験の時、ある人に同じように聞いたことがあります。

するとその方が「これから言う、三つのことをしなさい。一つ目は、毎晩お父さんの靴を磨くこと。二つ目は、自分が使った食器・弁当箱を自分で洗うこと。三つ目は、玄関と庭先の掃除をすること。約束できますか」と言われました。“父親を敬い、母親に感謝する心を持ちなさい”と教えて下さったのだと思います。

謙虚に徳を積んでゆけば、仏さまの守護を受けることができるに違いありません。

   すべては徳しだい

中国の明の時代、袁了凡という人が書いた『陰騭録』には「功徳を積むと必ず良いことがある。罪を作れば必ず悪いことがある」ということが全編に渡って書かれています。

その中に「試験の合否も功徳による」とあります。

中国には昔、科挙という官吏登用試験がありました。これの最終試験に一番で合格すると将来の総理大臣が約束されるなど、その合否で将来が決まるといったものでした。

その試験を受けた張畏巌という人がいました。とても勉強が出来て才能もあったので、間違いなく一番で合格できるだろうと本人は思っていました。ところが発表の時、合格者の中に名前がありません。そこで張畏巌は「試験官は目が横についているのであろう。吾輩の文章の卓越していることがわからんとは、よくよくの無学文盲の連中だ」と、場所柄もわきまえず言い放ちました。

すると、その傍らにたまたまいた道教の行者が、その様子を見てクスクスと笑いました。張畏巌が怒って「おぬしは一体何者だ。何の理由があって私を笑うのだ」と言うと「あなたのような、下手な文章を棚に上げて試験官が悪いなどと言う人がおかしくて私は笑ったのですよ」と答えました。それを聞いてますます怒り「おぬしは私の文章を見もしないでどうしてそんなことが言えるのだ。失礼だぞ」と言うと行者は「まぁ、気を静めなさい。私はこういうことを聞いています。

すべて文章でも絵でも、心の表現であるのだから、心が和平であればその文章も高尚で品格を具備したものになる。しかし、あなたのように傲慢な心の人が書いたものは、自然にその心が表われたものになるはずだ。試験官はあなたの文章を見ただけで気分が悪くなったであろう。私は、あなたの文章を直接見ていないがわかる。あなたの今の心の状態でいい文章が書けるはずがない」と言いました。

張畏巌も偉いもので自分の過ちに気づき、今度は謙虚に「ではどうすればいいのですか」と尋ねました。すると行者は「試験に合格するも落第するも、一定の運命関係によります。あなたがこの度、合格することができる天命にあったならば、文章が少々下手でも合格したでしょう。落第の天命にあるならば、文章が巧みであっても駄目です。すべては天命にあって、文章の巧拙は二の次。真に合格したいと思うのなら、まず天命を移し替えることから始めなければなりません」と言いました。

そう言われて張畏巌は「試験の合格・不合格も、世に出て出世するもしないも天命によると言うのなら、今度の私の不合格は天命がなかったということであきらめましょう。しかし、この恵まれない天命をどうしたら恵まれたものに変えることができるのですか」と聞きました。すると「ただ今より、今までの不平不満の心を打ち捨て、新たに善いことを力強く行ないなさい。陰で徳を施し、謙虚に身を慎んで生きていきなさい。そうすれば思うがままの幸運に恵まれるでしょう」と言われました。そこで張畏巌が「御慈教有難うございます。

しかし私は貧乏書生で何も持っていないから善事陰徳を積みたくてもできません」と言うと「陰徳を施すといっても、必ずしも財物を施すことばかりとは限りません。善事陰徳は、心の用い方次第です。心中、常に善い念を抱いて行なう行為はすべて、無量無辺の功徳が得られるに違いありません」と言われ、「わかりました。今度の試験まで命の限り頑張ります」と決意しました。

次の試験は三年後です。それまで毎朝水行をし、心身を清めて小悪を畏れ、小善を軽んぜず、徳行にはげみました。三年が経ち、もうすぐ試験という時に夢を見ました。大きな高い屋根の建物に入って行くと、中に分厚い名簿が一冊ありました。「これは何ですか」と近くにいた、衣冠を正した人に聞くと「これは試験に関する名簿です」と言われました。

その中を見て「名前と名前の間に空いている行がありますが、これはどういうことですか」と重ねて聞くと「これは天の神様の記録で、人間の功罪を記録したものです。貴殿が見たのは高等文官試験の合格候補者名簿です。天上では日々、人間の行動すべてを記録しているのです。この試験に関しては、三年に一度、それを総括しています。ずっと徳を積み、罪を作らなかった人は合格者の所に名前があり、行が空いているのは、徳を積んでいたけれども途中で挫折したり、罪を作ってしまったから名前が消えたのです。

この一番最後の百五行目に今度、貴殿の名前が入るでしょう。三年間よく徳を重ねてこられた。これよりなお自重自愛するように…」と言われました。

そして試験を受け、発表を見に行くと合格していました。それも、掲示板の百 五行目に名前があったのです。誠に不思議な出来事でした。

別の本にはこんな話も載っています。

ある科挙の試験官が一枚の答案を見て、出来が良くないからバツをつけようとすると、急に「不可(いけない)」という天の声が聞こえました。何度バツをつけようとしても「不可」と聞こえてきます。そこで「この答案にバツをつけてはいけないのか」と思い、合格にしました。

その後、その答案を書いた人がどんな人物かと思い会ってみると、彼は副業で漢方の医者をし、貧しい人からはお金を取らずに診療し、助けていました。試験官は「こういう功徳を積んでいるから天が彼を通せと言われたのだな」と理解しました。

また逆の話もあります。

良く出来た答案だったのですが、ある試験官が少し気になった所にチェックをしました。すると上級の試験官から「これは良く出来た答案だからチェックをする必要はない。合格だ」と言われました。そこでチェックを消そうとしたのですが、答案がどんどん汚れていってしまいました。科挙の試験は、汚い答案は不合格と決まっていたので、良い出来でしたが不合格になってしまいました。後で、その受験生は非常に素行の悪い人物だったということがわかったそうです。

勉強をしなければ試験には合格できませんが、徳を積んで諸天の守護を頂くことが、それ以上に大事なことだと思います。