生きる喜び
三年程前に、ブータンから国王御夫妻が来日されました。美男美女の御夫妻で非常に記憶に残っています。この時にわかにブータンブームになりました。
ブータンはヒマラヤ山脈に隣接していて、国土の高い所と低い所の標高差のすごい、非常に過酷な気候の国です。
そのブータンでは、日本や欧米で使われる経済指標GDPではなく、GNHという言葉が使われていると話題になりました。これは“国民総幸福量”ということです。先代の国王の時代から、国民に幸せになってもらおうと国民総幸福量を上げる努力をしてきたというのです。その結果、ブータンの人達に「幸せですか」と聞くとほとんどの人が「幸せだ」と答えるそうです。過酷な気候の中、日本と比べるとかなり貧しい暮らしをしていながら「幸せだ」と大勢の人が言っているのです。
それを聞いた日本人が「そんな幸せな国に一度行ってみたい」と旅行会社に問い合わせが殺到しました。しかし、実際に行った人は「こんなところでどうやって幸せを感じるのだろう」と驚いたことでしょう。
幸せは心一つの置き所
実は、幸福感は文明の度合いには比例しないと言われています。また、様々な学者が人間の幸福感・幸福度をいろいろな方面から研究しています。私も何冊か本を読んでみました。その中で、ノーベル経済学賞を受賞したプリンストン大学のダニエル・カーネマンという人の言われていることが記憶に残っています。
「年収が九百万円までは収入と幸福度が比例している。ところが九百万円を超えると幸福度はそれ以上に高まらない」
ある分析によると、低所得の人は「もう少しお金が欲しい」という思いが強く、お金が増えていくにしたがって幸福度が増していくけれど、ある程度になると幸せはお金ではないと感じてくるのだそうです。
また、「幸福の経済学」という本には「途上国の貧しい農民の多くが自分は幸せだと言う」と書いてありました。貧しい国にあって農業をしている人はまた一層貧しいのですが、そういう人達の多くが「自分は幸せだ」と言い、逆に、日本を含む先進国の人の方が「幸せではない」と言っているそうです。そしてこの本の最後の方に「所得が高くても幸福度がそれに見合って高まらないのをイースタリン・パラドックス言いますが、イースタリン・パラドックスが一番顕著に現われている国は日本です」と書いてありました。
先進国の中で日本は一番平均寿命の長い国です。また、いろいろな医療の面でも恵まれています。それなのに日本人は、その健康や医療に特に不満があると言うのです。
アンチエイジングという言葉をよく聞きます。殊に女性の間で「こういう物を飲むと肌が若返る」とか「この薬を点滴すると身体全体が若返る」などということが流行しています。これは「いくら健康で長生きできてもやっぱり老けたくない。健康で長生きできるのはあたりまえで、できるだけ若いままで年を取りたい」というように「もっともっと」という欲が日本人全般に強くなってきていて、イースタリン・パラドックスが顕著に現われてきているのではないかと思われます。
発展途上国より先進国に自殺者が多いのも「もっともっと」という欲望・悩みが深いからではないかと思います。
昔、「青い鳥」という童話を読みました。チルチルとミチルという非常に貧しい兄弟が魔法使いのお婆さんに言われ、幸福の青い鳥を探しに行く物語です。いろいろな国に行き、そこここに幸福の青い鳥がいるのですが、連れて帰ろうとすると籠の中からいなくなってしまいます。どこの国で捕まえても、いなくなってしまうのです。最後に、クリスマスの朝目が覚めて「夢だったんだ」と思ったら、自分が飼っていたハトの色がどんどん変わり、青い鳥になるのです。そこでチルチルとミチルの兄弟は「青い鳥はここにいたんだ」と気付くというお話です。
これは「幸せは他所にあるような気がするけれども実際は心の持ちよう次第で、本当の幸せはここにあるのだ」ということを教えているのです。
このお話には続きがあります。魔法使いのお婆さんが「幸福の青い鳥を見つけるとどんな願いでも叶う」と言うのです。二人の兄弟の友達に足の悪い女の子がいました。そこで「青い鳥を見つければあの女の子の足も治る」と、その女の子を連れてきて青い鳥を抱かせます。すると本当に足が治るのです。それを見てみんなが幸福の青い鳥を取り合います。しかし青い鳥は逃げて、どこかへ行ってしまった、というのが結末です。
ここがこのお話の肝心かも知れません。幸せは、人と取り合って得られるものではないのです。心の持ちよう次第、そして、どこか他所にあるのではなく、自分の身近にあるのです。
貧乏を楽しむ
幕末の越前藩に、国学者で歌人であった橘曙覧という人がいました。非常に優秀な人でしたが、大変貧乏でした。その貧乏を楽しむような歌を残しています。「独楽吟五十二首」というものです。これを読んだ正岡子規が「素晴らしい。源実朝以来、歌人の名に値するのは橘曙覧ただ一人だ」と言っています。
どういう歌かというと、すべて「たのしみは」で始まるのです。
「たのしみは妻子むつまじくうちつどひ頭ならべて物をくふ時」
“妻子が仲睦まじく物を食べているのを見る時に幸せを感じる”
「たのしみは空暖かにうち晴し春秋の日に出でありく時」
“春秋の気候のいい時に外を歩くのは楽しい”
「たのしみは物識人に稀にあひて古しへ今を語りあふとき」
“物を知った人にあって語り合うときが楽しい”
「たのしみは心をおかぬ友どちと笑ひかたりて腹をよるとき」
“気の知れた友人と笑いあいながら語り合うのが楽しい”
「たのしみは錢なくなりてわびをるに人の來りて錢くれし時」
“お金がなくて心細いときに、訪ねてきた人が援助をしてくれた時がうれしい”
「たのしみはとぼしきまゝに人集め酒飲め物を食へといふ時」
“人を集めてお酒を飲みなさい、物を食べなさいと勧めるときがたのしい”
「たのしみはいやなる人の來たりしが長くもをらでかへりけるとき」
“嫌な人が来た時に、長居せずに帰っていった時は楽しい”
「たのしみは朝おきいでゝ昨日まで無りし花の咲ける見る時」
“朝起きて昨日まで蕾だった花が咲いているときが楽しい”
正岡子規は「技巧がなく、素直に日々の喜びを表わしている」とほめています。
越前藩の藩主は松平春嶽という人で、名君として有名でした。当時、四賢候という四人の賢い君主の一人に挙げられています。この松平春嶽が橘曙覧の噂を聞き “城に出仕してもらいたい”と思い橘曙覧の家に出向きました。するとそこは非常におんぼろな家でした。松平春嶽は“こんなところに住んで、あんな楽しそうな歌を詠んでいるのか”と驚きました。そして“出仕してもらえないか”と言います。しかし、橘曙覧は城にのぼることを断ります。その時、松平春嶽は〝自分は何一つ足りないものはない身であるけれども、心は寒く、貧しくて、彼に対して後ろめたく、顔が赤くなる心地がした〟と恥じ入り、生涯、橘曙覧の後援者となりました。橘曙覧の歌集は松平春嶽のお陰で出たのです。
橘曙覧のように、日々の生活の中で「たのしみ」が見つけられると、一番幸せということになるのだと思います。
生きているだけでありがたい
日々喜び、感謝をすることが大事です。感謝をするためには、視点を変えてみるのも良いと思います。「もっともっと」ではなく、「こんなにありがたいことがあるんだ」ということが感じられると「幸せだな」となります。
今我々は日本に住んでいます。そこで提案です。“これほど素晴らしい国に住んでいる価値はどれくらいだろう”と、値段をつけてみたらどうでしょう。
この国に住みたくないとしたら、どこに住みたいと考えますか。日本に住みたくないという人はそんなにいないと思います。たまにイタリアとかフランスという人はいても、やっぱり日本がいいなという人の方が多いと思います。私は、「値段がつけられないくらい日本はすばらしい」と思っています。
また、愛する人、自分を愛してくれる人がどれくらいの価値があるか考えてみて下さい。
「誰かからお金をもらって売り渡すことができますか」と言われてもできないでしょう。家族や友達などかけがえのない人が、今私達にはいます。
今度は自分の体、たとえば目です。目が開いて物が見えるのは当然のように思っていますが、もしこの目を売ってくれと言われたとしたらどうでしょう。いくらもらってもいやでしょう。二つあるから一つはいいではないかと言われてもそうはいきません。手足もそうです。国家予算くらいのお金をもらっても、売り渡すことはできません。それくらい尊いものを持っているのです。こんなありがたいことはありません。
このように視点を変えていくと、ありがたいことばかりになってきます。
プロゴルファーの中嶋常幸さんがテレビである体験を語っていました。中嶋さんのお父さんは非常にスパルタで、子どもを叩いてゴルフを教えました。そのおかげで中嶋さんは若い頃から大活躍し、日本パブリック選手権から日本オープンに到るまで、「日本」と名の付くタイトルをすべて取ってしまいました。賞金王にもなりました。ところが四十歳を過ぎた頃にお父さんが亡くなりました。すると予選落ちばかりになったのです。
「考えてみたらお父さんは怖かったけれど、あのお父さんに褒めてもらおうと思って一生懸命やっていた。ところがお父さんが亡くなって、褒めてもらう人がいなくなったらモチベーションが無くなってしまった」と言われていました。そして、予選落ちを繰り返して「ゴルフをやめないといけないかな」と思いながらホテルでふて寝をしていた時、もうじき死ぬという寝たきりの少年がテレビで話していました。少年が、「皆さん、命があるだけでいいんですよ。体が動かなくても命があるだけで。僕も動けなくてもいいからもっと生きたいです。この世に命があるだけで幸せなんです」と言っていたのです。それを見た中嶋さんは「自分は健康でゴルフができている。何を落ち込んでいるんだ。落ち込んでいる理由なんて何もないじゃないか」と思ったそうです。それから、「もう一回やろう。生きているだけでありがたいんだ」と思えた時に大復活し、シニアになってからもシニアの日本タイトルを取り、若手と試合をしても勝つようになりました。
人は生かされている
比叡山の千日回峰行を二度成満された酒井雄哉大阿闍梨に、ある信者さんが「人間はなぜ生きるのでしょうか。つらいことばかりの人生に、ふと、生きていく意味とはなんなのかを考え込んでしまいます」という質問をされました。それに対する酒井阿闍梨の答えは「なんで生きるのかなんて考えてしまうのは、感謝する気持ちが足りないからですね」というものでした。
“感謝する気持ちがあったらなんで生きるのかなんて考えませんよ”ということです。
人間は誰もが自分で生きているのではなく生かされているのです。人間は支え合って生きているのです。生かされていることに感謝をすると、そこで自然に報恩の気持ちが芽生え、社会や人に対して〝何かしなければ〟という気持ちになります。生かされていることに感謝をしなければ、何も始まらないのです。