感謝の心で道を開きましょう

掲載日:2016年1月1日(金)

知恩・感恩・報恩 今あるものに感謝を

今、日蓮宗では大荒行が行なわれています。名古屋からは四人入行しておられます。

荒行は睡眠時間を極限まで削ってお経をあげ続け、その合間に水行をしたり、写経をしたりします。食事は朝夕二回、おかゆとみそ汁を一杯ずつ食べるだけという、本当に命を削るような修行です。

何のためにするかというと、悟りを得るためです。その悟りの一つが「感謝を知る」ことです。“ありがたい”という心をつくるのです。

感謝は、繁栄のもとです。健康のもとでもあります。心から感謝のできる人は物事がうまくいき、健康にもなれ、家も商売も繁栄するのです。逆に感謝のできない傲慢な人は、何をやってもうまくいきません。当然病気にもなりやすいです。感謝は、人類繁栄の法則と言ってもいいと思います。

日蓮宗の尼僧さんで瀧本光静さんという方がおられます。その方が講演で次のような話をしておられます。

「ある女性のお話です。その女性は大きな交通事故にあって右腕を切断するほどの大けがを負いました。お医者さんは『切らなくてもいいが、完全に腱が切れているから腕は一生動きませんよ。動かない腕をぶら下げていると体に余計な負担がかかり、頭も痛くなります。それが我慢できるならそれでもいいですが、総合的に判断すると切った方がいい』と言われました。

若い女性ですから切るのはいやです。一生懸命左腕一本で生活できるように訓練しました。そして、いろいろなことが左腕だけでできるようになりました。字も書けるようになりました。体のだるさもどうにか我慢できます。ところが、外出のとき運動靴を履くにも片手では紐が結べないなど、左腕一本では難しいことが日常生活の中にいっぱいありました。それでだんだん落ち込み、ついには引きこもりのような状態になってしまいました。外に出るのが嫌になってしまったのです。しかし彼女は、本を読むのが好きで、家にこもってずっと本を読んでいました。たまたま出会った本に『この本を読んでいるあなたの体のどこかが痛かったり、悪かったりしたら、それを恨むのではなく、そうではない場所に感謝をしてみてはどうでしょう』と書かれてありました。そこで気が付きました。『自分は車が大爆発するような大事故に遭ったのに、右腕が使えなくなるだけですんだ。ありがたいな』と思えたそうです。その次に『この本が読めているのは左手があるからだ。

眼が大丈夫だったからだ。運動靴が履けないと嘆くのは、履ける足が残っているからだ』と、だんだん物事を前向きに感謝の目で見ることができるようになったのです。それから毎晩、残ったところに手を当てながら祈り続けたそうです。『左腕さん、残ってくれてありがとう。南無妙法蓮華経。心臓さん、止まらないでくれてありがとう。南無妙法蓮華経』。そして右腕に向かって『右腕さん、長い間私の人生を支えてくれてありがとう。ゆっくり休んでね。南無妙法蓮華経』と、動かない右腕をさすってそう唱えたと言います。そのうちに、動かないはずの右腕の先が動き出したのです。それから4年間リハビリに励みました。すると多少不自由があっても普通に動くようになったのです。『どういうことだろう』と思い、お医者さんのところへ行くと『ああ、腱が枝分かれしましたね。太い腱が切れてしまったけれど、切れたところが枝分かれしてつながり、動くようになったんですよ』と」。

こういうことがあるんですね。人と人は“助け合う”とよく言いますが、体の中も助け合うのです。脳は、脳の一部分がダメになっても他の部分が助けて正常な働きができるようになるということを本で読んだことがあります。まさにそれです。

今はほぼ普通に動くようになったそうです。そして言われました。

「実はその若い女性とは私のことです。事故を起こして心が折れそうになりましたが、そのことで『感謝』を思い出して光を見つけました。感謝によって動かないはずの右腕が動くようになりました」。

感謝によって奇跡が起こったのです。

片腕のプロゴルファー・小山田雅人さんのお話です。小山田さんは二歳の時に事故で右腕を切断しましたが、いろいろなスポーツを普通の人以上にできました。高校卒業後に「ゴルフをやってみたい」と、左手でクラブを持って始めました。右手の義手は支えるだけです。そんな状態でゴルフを始めたのですが、どんどん上達してハンディキャップゼロのスクラッチプレイヤーになりました。その後、結婚をして奥さんに「もう少しゴルフの腕を磨いてプロになりたい」と言ったそうです。普通ですと「また、馬鹿なことを考えて」と言われそうですが、奥さんは「頑張って」と言ったのです。

そんな折、頭が痛くなり、変だと思って病院に行くと左側頭葉に脳腫瘍が見つかりました。手術をして無事に腫瘍は取れたのですが、それから体重がどんどん減って20キロ痩せたと言います。ゴルフも、それまで270ヤードくらい飛んでいたのが200ヤードくらいしか飛ばなくなってしまいました。「これではプロゴルファーは無理だな」と愚痴を言っていると、奥さんに「何を言っているの。訓練したらわからないわよ」と言われ、野球用の重いマスコットバットを左手一本で三年間振り続けたと言います。そうすると体重ももどり、飛距離も元どおりになりました。そして、めでたくプロゴルファーになることができました。

「ないものを嘆くより、あるものに感謝しましょう。私は右腕を無くし、左側頭葉の大部分を無くしました。しかし、残った左手と右の脳に感謝して今やっています。人間は誰でも、人生でいろいろなものを無くしますが、無くしたものではなく今あるものに感謝をしましょう。そうすれば必ず道は開けます。幸せになれます」と小山田さんは言っておられます。

   三恩のこと

感謝を分析すると「三恩」が出てきます。

「知恩」「感恩」「報恩」です。

「知恩」とは“恩を知る”ことです。たとえば物をもらった時、誰からもらったかを知るということ、また、何かしてもらったら誰からしてもらったかを知ることです。

「感恩」とは“ありがたいな”と感じることです。

「報恩」とは“ありがたいな”と感じたら、それに報いるために何かをすることです。

この「知恩」「感恩」「報恩」の三つがそろって感謝ということになります。

最近いろいろなメディアで報道されている日本とトルコの友好の話があります。この話を元として映画が作られました。「海難1890」と言います。昨年12月5日に公開されましたから、ご存知の方もおられると思います。

1985年、イラン・イラク戦争はひどい状態でした。もともとは、フセイン大統領がイランに攻め込んだのが始まりでしたが、どんどん状態が悪化していき、ついに1985年3月、フセイン大統領が「今から40時間後からイランの上空を飛ぶすべての飛行機を打ち落とす」と言い出しました。それまでも外国人は自分の国に避難をしていましたが、日本人はなかなか避難できませんでした。なぜなら、日本の飛行機は戦争が始まった時に航行を止めてしまっていたのです。どこの国も、自国民以外はなかなか飛行機に乗せませんでした。ですから日本人は、よその国の航空会社のほとんど無い空席を探して帰るしかありませんでした。

結局、216人の日本人がテヘランのメヘラバード国際空港に足止め状態になりました。こんな時だから、政府専用機や自衛隊の飛行機を飛ばしたらいいじゃないか、と思いますが、それができなかったのです。今は法律が変わって、政府専用機も自衛隊機も飛んで行けるのですが当時はだめでした。そこで外務省が日本の航空会社に頼んだのですが「イラン・イラク両国が飛行機の安全を保障しない限り飛ばせない」との主張を曲げません。残された日本人は絶望の中にいました。そこへ突然、トルコの飛行機が飛んできました。そしてその飛行機の機長が「日本の方々は全員乗ってください」と言いました。「どういうことだろう」と思いながら日本人はその飛行機に乗りました。しかし、216人全員は乗れませんでした。

すると、また別の飛行機が飛んできて残った日本人を全員乗せ、トルコのイスタンブール国際空港に送り届けてくれました。救出された人たちは「一体、なぜトルコの飛行機が助けてくれたのだろう」と狐につままれたような思いでいました。取材していた日本の報道機関も理由が解りませんでした。それをトルコ人が教えてくれたのです。

その年からちょうど百年程前、トルコがオスマントルコという大帝国だった頃、エルトゥールル号という大きな軍艦が日本の明治天皇を表敬訪問した帰り、台風に遭って沈没してしまいました。トルコの人は台風というものを知らなかったのです。日本人が「この時期は台風がよくあって危ないから出航はやめた方がいい」と忠告したのですが、それを押して出て行き、結局沈没してしまったのです。場所は今の和歌山県串本町沖で、結論を言いますと、乗組員609人の内、69人が助かりました。

助けたのは、当時の大島村樫野の村人たちでした。村人たちが命がけで荒れる海に飛び込んで助けたのです。体温が下がって命の危険にさらされていた人々を、村人全員が裸になって暖めたと言います。それから、自分たちの食糧を非常用の物まですべて与え、着る物まで与えました。貧乏な村で余裕など全くありません。ですから「この先どうしよう。着る物も食べる物もない」と話し合っていると、誰かが「いや、おてんとうさまがどうにかしてくれるから大丈夫だ」と言ったそうです。

その知らせを聞いた明治天皇が全国から優秀なお医者さんを集め、神戸の病院に送りました。怪我をしたトルコの船員は全員神戸に送られました。この話が広まると日本中からかなりの金額の義援金が集まりました。

何か月かして、元気になった船員たちは明治天皇の計らいで、当時の日本の最新鋭の軍艦でイスタンブールに帰ることができました。

こういうことがあったのです。日本人はそのことを全然知りませんでした。

なぜこの出来事をトルコの人は知っていたのでしょう。ネジアティ・ウトカンという駐日トルコ大使だった人が「エルトゥールル号が遭難した時に日本の人々がしてくれた献身的な救助活動を、今もトルコ人は忘れていません。だから、トルコの飛行機が飛んだのです。私も小学生の頃に歴史の教科書で学びました。今の日本の方々は忘れてしまったかもしれませんが、トルコでは、小さな子どもたちでさえエルトゥールル号の出来事を知っています」と語っています。

私があるテレビ番組で見た時には、二番機を操縦していた操縦士が「あの時はフセイン大統領が言った時間ギリギリだった」と、インタビューに答えていました。もしかしたら打ち落とされるかもしれないという時でした。しかしその操縦士は「怖くなかったですか」と聞かれると「撃ち落とされるかも知れないから怖かったけど、日本人のためなら何度でも飛びますよ」と言っていました。

もう一つ後日談があります。イランとトルコは近い国ですから、イランにはトルコ人もたくさんいました。でも「日本人を最優先せよ」というオザル首相の命令で500人のトルコ人が飛行機に乗れませんでした。その人たちはどうしたかというと、車がある人は車で、無い人は歩いて国境を越えたと言います。車でも3日以上かかるそうです。オザル首相の命令でそうなったのですが、一人も文句を言う人はいなかったそうです。

この後、トルコで大地震が起こった時、日本の救助隊が世界で一番最初に救助に向かいました。

本当に感謝は、人類繁栄の法則であると感じずにはいられません。