失敗は成功のもと 原因を探ることが大切です

掲載日:2016年2月1日(月)

失敗から成功へ

昨年、二人の日本の学者さんがノーベル賞を受賞されました。その一人、生理学・医学賞を受賞された北里大学特別栄誉教授の大村智先生は、エバーメクチンという物質を発見し、それを元に薬を作って延べ二億人もの人を失明から救ったと言われています。また、人間だけでなくこの薬は、動物を伝染病から救うのにも役立てられています。

大村先生が受賞後、多方面の取材を受け「少しでも世のため、人のためになることができないかと、ひたすらそれだけを心掛けてやってきた」と答えられていたのを聞いて、“発明・発見というものは慈悲心からだな”とつくづく思いました。

立派な方はやはり、慈悲の心が深いのです。前回IPS細胞の発見によってノーベル生理学・医学賞を受賞された山中先生も「どうにかして難病の人を助けたいと願い続けていた」と、大村先生と同様のことを言われていました。

昨今、その山中先生の研究所に入りたいという人が列をなしているそうです。その人たちに対して山中先生は面接で「大丈夫ですか。ほとんどの実験は失敗ですよ。一割も成功しませんよ。それに耐えることができますか」と聞かれるそうです。そう言われ、おじ気づいて帰ってしまう人もいるそうです。研究者にとって失敗は、避けて通れないというのが事実のようです。

かの天才発明家・エジソンも失敗の連続でした。何百回も失敗して、周りの人から「もうやめたらどうだ」と言われてもエジソンは「一回も失敗していない。駄目な方法がわかったから小さな成功だ」と言い、実験を続けたのです。そして、最後には必ず大成功をおさめたのです。

   あきらめない

自動車メーカー「本田技研工業」の創業者・本田宗一郎さんは「私に失敗という言葉はない。挫折という言葉もない。なぜなら、成功するまで、上手くいくまでやめないからだ」と言われています。

戦前、本田さんがトヨタ自動車の下請けをしていた時、五十個中、四十七個もの不良品が出たことがあったそうです。その時は毎日明け方まで、機械にしがみついて良い製品を作ることに専念されていたそうですが、当時のことを「私が一生のうちで最も精根を尽くしたのはあの頃である。『ここで私が挫折したら、みんなが飢え死にする』と頑張った。しかし、仕事はさっぱり進展しなかった。月末の給料も払えないことがあった、絶体絶命のピンチだった」と話しておられます。しかし、そんな時でも朝礼の時にミカン箱の上に立ち、社員に向けて「日本一になると思うな。世界一になるんだ」と言い続けていたそうです。そして逆境を乗り越え、本当に「世界のホンダ」となったのです。

「トヨタ自動車・中興の祖」と言われている石田退三さんが、勝海舟の有名な言葉「わしは恐ろしい男を二人見た。一人は横井小楠、一人は西郷隆盛だ」を真似て「わしはこの歳までに恐ろしい男を二人見た。無茶苦茶と言おうか、我々の頭では計りようのない発明家だ。その二人とは、一人が豊田佐吉、もう一人が本田宗一郎である」と言われています。

本田さんとともに働いた名副社長の藤沢武夫さんが「本田はあきらめない男だった。遠い夢をいつも追い続けていた。『今期の売上はいくらだった』などというようなことは言ったことがなかった。ただ結論の出ない夢のような話ばかりしていた」と言われています。

しかし実は、本田さんは緻密な人だったのです。仲の良かったソニーの創業者・井深大さんとの対談で、本田さんは次のように言われています。

「ソニーでもうちでも失敗したことは大切にしているが、多くの人は、この失敗を知ろうとしない。表面に出た成功ばかりを探しにいくわけだが、その成功の陰にはものすごい数の失敗があるんだ。失敗を恐れてはいけない。『失敗の内容がどうであったか』ということが一番のエッセンスなんだ」

“失敗に失敗を重ねても、最後に成功するためには失敗の中身を検証し続けることが大事だ”と言われているのです。

エジソンや本田さんのようなとてつもないことはできませんが、失敗をきちんと検証することは、我々にも必要だと思います。

   心を落ちつける

将棋の世界の話ですが、一時期、七大タイトルのほとんどを羽生善治さんと渡辺明さん、そして森内俊之さんの三人で分け合っていました。その中の一人、森内さんは長いあいだ低迷していましたが、ある閃きによって問題を克服されたのだそうです。

森内さんは小学校三年生から将棋を始め、おじいさんもプロの棋士で実力は群を抜き、同級生の羽生さんに四年生の時に勝ったこともあるそうです。

プロ棋士を目指す人は奨励会に入り、二十六歳までに四段にならないとプロにはなれませんが、森内さんは六年生の時、奨励会の試験に合格しました。羽生さんも同期で合格しています。

その羽生さんは、十五歳で史上三人目の中学生プロになりましたが、森内さんは昇段試験に何度も失敗して、羽生さんに大きく水をあけられました。

奨励会では、プロと一般の会員では、その立場は天と地ほどの差があります。羽生さんが先生なら、森内さんはお茶汲みです。そうして羽生さんから遅れること一年半、森内さんはようやくプロになれましたが、それ以後も十年以上、まったく芽が出ませんでした。一方、羽生さんは、二十六歳の時に七大タイトルをすべて取りました。

森内さんの低迷の原因は、動揺しやすい性格にありました。非常に細やかな気配りをされる方だそうですが、それが勝負事には災いしたようです。繊細過ぎたのです。ミスをするとすぐパニックになってしまい、さらに次のミスを呼び、負けが負けを呼ぶという悪循環に陥っていました。そこで森内さんは、このままではいけないと自分の失敗の原因を探り、パニックになるときの、心の動きを観察したのです。そして、辿りついたのが“最初のミスはたいていの場合たいしたことがない。その後、パニックになって打つ次の一手が悪いんだ。最初のミスをした後にパニックに陥らないよう間を取るようにしよう”でした。

ミスをしたと気付いたら、トイレに行ったり、顔を洗いに行ったり、目薬をさしたり、何とか間を取るようにしたのです。

やがて、たったそれだけのことで正しい一手が打てるようになり、三十二歳の時に丸山忠久名人を破り初タイトルを取りました。その後、名人位を通算五期獲得して、羽生さんより一年早く永世名人となりました。

その森内さんは「何かに挑み、負けという結果が出た時、ほどんどの人は、次の勝ちに目を向けます。『次はもっと頑張ろう』と。負け癖がついている時、この方法は、必ず次の負けを呼びます。その時、目を向けるべきものは次の勝ちではなく、今、目の前にある負けです。誰でも負けから目を背けたくなりますが、その負けを見つめることこそ、次の勝ちへの近道となるのです」と言われています。

ある意味、失敗を忘れることも大事かもしれませんが、何か失敗してしまった時は冷静に「どうして失敗したのか」を考えてみることが、成功への近道であることは間違いないと思います。