心の置き方で世界は変わります 

掲載日:2026年3月1日(日)

 今月号も一休さんの逸話から始めたいと思います。

 ある日、一休さんのところへ一人の男が訪ねて来ました。そして、「自分の父親は縁起をかつぎ過ぎて困る。ことに『し(死)』の字が嫌いで、みんなに『し』の字を使うことを禁じているから、不便でしかたがない。どうにかして、父親を直していただけませんか」と言うのです。一休さんはこの男が本当に困っているようなので、「それなら一つ、わしが行って直してしんぜよう」と言って、この男と連れ立って出かけました。

 そして、魚屋に寄って鰈を四匹買い、それを土産にしました。この男の父親は、鰈を四匹もらったとたんに気分を悪くし、頭から息子を叱りつけました。

「こんな縁起の悪い土産をもらう奴があるか。鰈が四匹で『しかれ』ではないか。すぐお返ししなさい。全く礼儀を知らないにもほどがある」

 そこで一休さんが、にこにこ顔で鰈をしまいながら、「何ごとも『よかれ』と思って来たのですが、お気に入らないようなので持って帰りますかな」と言うと、父親は驚いて、「そうですか、よかれ(良かれ)と思って持って来てくださったのですか。ありがとうございます。さっきの失礼はお許しください」と謝りました。そこで一休さんは「何事も、物は取りようで、良くも悪くもなるものです。何事も『よかれ』と思いなさい。そう思うと、世の中の事、すべてが良くなるものです」と言いました。

 この父親は、相手が一休さんと聞いて、いっそう驚きました。そして、この言葉をありがたく受け止め、その後は「し」という字にあまりやかましく言わなくなったということです。

 今回は「物の見方」というお話をさせていただこうと思います。物事の見方というのは、人によって本当に違います。楽観的な人もいれば、悲観的な人もいます。また、素直に見る人もいれば、ひねくれて見る人もいます。実にさまざまです。私は一休さんのような物の見方が良いと思います。

 

【楽観主義がもたらす科学的な効果】

『脳科学は人格を変えられるか?』という本の中で著者のエレーヌ・フォックスというオックスフォード大学教授が次のように言っています。

「楽観が幸福につながるのは、思考が持つ魔法のような力のせいではなく、そうした心の傾向が有益な行動と結びついた結果であることは、ほぼ間違いない。楽観がもたらす利益の中でももっとも驚きなのは、寿命に関することだ」

 そして、アメリカのケンタッキー大学の研究チームの調査結果に言及しています。

「彼らは、全米各地の180人のカトリックの修道女が手書きで書いた自叙伝を検証した。1930年に書かれたその自叙伝には、彼女らが修道院に入るまでの人生が綴られている。自叙伝が書かれた時の平均年齢は22歳で、研究チームは約60年後の彼女達の行方を突き止めた。接触した時の年齢は75歳から95歳。研究チームは、修道女達が自叙伝の中で、日々の出来事や事件にどう反応したかのサインを注意深く検証し、どの修道女が楽観的な物の見方をするか、どの修道女が悲観的な世界観をもっているかを点数化した。1990年代に研究チームが接触した時、180人のうち76人が死亡していた。アメリカ人の平均寿命を超えた修道女はこの時点で50パーセント以上。修道院での禁欲的かつ健康的な生活形態を考慮すれば、この数字は驚きではないかもしれない。注目すべきは、楽観主義的な修道女がより長生きをしていたことだ。若い頃、陽気で明るい自叙伝を書いていた修道女達は暗い自叙伝を書いていた同僚と比べ、平均で十年も長生きをしていた。禁煙によって延ばせる寿命がだいたい三~四年と見積もられているのを考えると、バラ色の世界観をもつことで十年分の余命がプレゼントされるのは注目に値しよう」

【新渡戸稲造博士の人生観】

『武士道』の著者として有名な新渡戸稲造博士は、その人生哲学書『世渡りの道』の中で次のように言われています。

「とかく物事には明・暗の両方面がある。私は光明の方面から見たい。そうすればおのずから愉快な念が湧いてくる。人が生涯の中で遭遇する物事は、善意にも悪意にも解せられるものが多く、物そのもの、事そのこと自体は、絶対的に善でもなく悪でもない場合が多い。したがって、人生なるものはめいめいの心の置きよう、すなわち心のもちようによって、どうにでも取れる」

 本当にこの通りです。すべての物事は善にも悪にも解釈できます。病気でさえそうです。日蓮聖人が「病によりて道心はおこり候か」(妙心尼御前御返事)と言われるように、病気をきっかけに悟りを得たとか、かえって幸せになったという方もあります。

 新渡戸博士は別のところでこうも言われています。

「かつて英文の聖書を読んだ折、しばしば〝Be of good cheer.(陽気に振る舞いなさい)〟という言葉に出会ったことがある。その後、注釈書を読むと、この言葉が聖書全体を通じて40回も出てくるということを知った。不愉快の時、艱難の時、たとえば病気にかかり、貧乏となり、あるいは罪のために苦しむ時、そこにこの言葉が繰り返されている。

 陽気に振る舞うことは大して困難ではないと思っていたが、聖書にしばしば掲げられてあるのを見てから、なるほどこれは容易ではないことであり、宗教的に考えるとすこぶる重く、かつ実行しようとしてはじめてその重みがわかると思った」

 新渡戸博士は、「少年よ、大志を抱け」で有名なクラーク博士のいた札幌農学校を主席で卒業し、アメリカに留学、続けてドイツにも留学し、その後、アメリカ留学中に知り合ったメアリー・エルキントンとアメリカで結婚し、クエーカー教徒(プロテスタントの一派)となりました。帰国後に札幌農学校教授となるのですが、長男の遠益(トーマス)が産後8日目で亡くなります。加えてメアリー夫人が産後の肥立ちが悪く、心身ともに衰弱していきます。新渡戸博士自身も強度の神経衰弱となり、医師から長期の療養を言い渡されます。35歳の時です。この時の気持ちを表す句があります。

「なかば来て 高根ながめの 一休」

 新渡戸博士はここで考えたのです。〝これは神より与えられた休暇かもしれない〟そして、この期間を沈思黙考の機会としたのです。学校を休職し、療養先のアメリカのカリフォルニアで書かれたのが『武士道』です。

 新渡戸博士はドイツ留学中、仲良くなったベルギー人の法学者ラブレー氏に「日本には宗教教育があるか」と聞かれ、「ありません」と答えたそうです。それに対してラブレー氏から「宗教教育なしでどうやってあなたがたは子孫に道徳を教えるのか」と問われたのです。このことがずっと頭に残っていた新渡戸博士は、自身の幼い頃から学んだ人の倫を思い返し、日本人の精神の根本には何があるのかと考えた末に、「日本には武士道がある」という結論に至り、英文で『Bushido : The Soul of Japan』を書いたのです。

 余談ですが、孫の加藤武子さんの書かれた『マイグランパ新渡戸稲造』の中にこんな話がありました。

「両親は私の名前を、兄の誠の場合がそうであったように、尊敬してやまない稲造の書いた『武士道』から採ることにしたのです。兄の名前の『誠』は、武士道の中心的思想です」

【子どもへの言葉のかけ方】

 物事の見方は本当に人それぞれですが、特に先生や親は、子どもに対して明るい方面から見て言葉をかけることが大切だと思います。昭和の時代、兵庫県に東井義雄という、教育者の最高賞であるペスタロッチ教育賞を授与された小学校の校長先生がいました。東井先生は「通信簿の改造」を提起し、形式に偏った評価から、一人ひとりの子どもの内面や努力に光を当てる教育への転換を促しました。東井先生はつねづね自分の学校の先生方にこんなことを頼んでいました。

「子ども達のテストに〇や×をつけねばならない時、〇は紙からはみ出るほどに大きく二重にも三重にも書いてやってくれ。×は虫眼鏡で見なければわからないほど、小さく書いてやってくれ」

 東井先生のお話です。A君は勉強が苦手でしたが、学期末の通知表に「4」が二つもありました。大喜びで家に飛び帰って父親に見せようとしましたが、父親は牛の世話をしながら「後で見るから、そっちに置いとけ」と言いました。夕飯の時にようやく見てくれたと思ったら、父親は「なんだ、2が二つもあるじゃないか」と言います。A君は思ったのです。

〝4が二つもあるのになあ…〟

 東井先生は言います。

「もし父親が何をさておいても『どれどれ』と通知表を見てやり、『おお、すごいな。4が二つもある。お父さんよりよっぽど成績が良いじゃないか。お前ならやれる。これからも頑張れよ』と肩をたたいてやってくれていたら、どうであったろう。おそらく、次の通知表からは、2が消え、4が増えるのではなかろうか。『あなたはすばらしい』、『あなたならやれる』。この一言の中には、愛と信頼と、期待と予言と、さらには祈りと見守りが込められているのです」

【子どもは、親や先生の言葉を強く受け止める】

 20世紀の初め、イタリアにエンリコ・カルーソーというオペラ歌手がいました。一時期、三大テノールが世界中で大人気でした。ドミンゴ、カレーラス、パヴァロッティです。カルーソーは、その三人を合わせた以上に人気のあったテノール歌手です。その美声は神の賜物と言われましたが、48歳の若さで病死しました。カルーソーの病気を知った世界中のオペラファンが、彼の病気が快復するように何万回とミサを行ったといいます。

 実はカルーソーは、元々声があまり良くなかったそうです。でも歌うことは大好きでした。子どもの頃のある日、音楽の先生が「君の歌はダメだね。高音が出ないし、声自体が良くない」と散々なことを言いました。実際、それから繰り返し練習するのですが、高い声がなかなか出ませんでした。高い声を出すと声が割れてしまうのです。それがどうして神の賜物と言われるほどのテノール歌手になったのか、理由があります。

 カルーソーの家は非常に貧乏な農家で、お母さんは21人の子どもを産み、その内の18人が幼くして亡くなってしまいました。残った3人のうちの一人がカルーソーでした。お母さんは特にカルーソーを可愛がり、〝この子には天賦の才能がある〟と信じていました。人生で唯一の楽しみはカルーソーの歌を聴くことでした。

 カルーソーが学校の先生に散々言われた時、家に帰ってお母さんに泣いて「こんなことを言われた」と言いました。するとお母さんは「先生が何と言おうと、あなたの声は私には天使の声に聞こえるよ」と言ったそうです。お母さんはカルーソーが15歳の時に亡くなりました。カルーソーはお母さんについて、「母は本当に僕のことを愛してくれて、僕を歌手にしようとして、靴も買わずに裸足で過ごしたんだ。僕のために生きてくれたんだよ」と涙を流しながら語っています。

 お母さんが亡くなってから、お母さんの写真を肌身離さず持って、昼間は工場で働いて、夜は歌の勉強をしました。必ずお母さんの写真に向かって、毎日歌を歌ったそうです。お母さんの言葉と不断の努力の成果でしょう。いつしか、カルーソーの割れた声が神の賜物と言われるほどの美声に変わっていたのです。そして世界一のテノール歌手になったのです。

【三浦綾子さんと光世さんの夫婦愛】

 三浦綾子記念文学館、特別研究員の森下辰衛さんのお話です。

 三浦綾子さんは、24歳の時に結核になり、37歳までの十三年間療養生活を続けられました。最後の四年間は脊椎に結核菌が入って脊椎カリエスとなり、ギプスベッドに固定され、寝たきりの生活でした。

 後に夫となる三浦光世さんとは闘病中に出会いました。二人は病気が治るのを待って結婚しました。42歳の時、『氷点』という小説が朝日新聞の懸賞小説で入選しました。書籍化されるとたちまち大ベストセラーとなりました。映画化され、テレビドラマでは8回もリメイクされました。ベストセラー作家となった三浦さんですが、晩年は次々と病魔に襲われました。心臓発作、ヘルペス、直腸ガン、そしてパーキンソン病です。

 その晩年、NHKが三浦さんのドキュメンタリー番組を制作したことがありました。その時、三浦さんにはもう書く力がなく、最後の力を振り絞って、長編小説『銃口』を口述して、夫の光世さんが筆記していました。番組を観ていたある人が森下さんに「三浦綾子はもう終わったね」と悲しいことを言ってきました。確かに三浦さんの体力はもう限界でした。

 しかし、今度は別の男性が森下さんに意外なことを言いました。

「私はあの番組に救われました」

 当時、50代だったこの男性は、脳の病気で寝たきりになった奥さんの介護を十年近くしていました。仕事と介護の両立は限界に達し、ストレスからか、お医者さんからステージ4のガンを告知されました。

 ある日、奥さんの容体が悪化し、救急車を呼びました。その車中、彼は〝これで死んでくれるかな〟と思ったそうです。奥さんを病院に預けて、自宅に戻り、ふとテレビをつけた時、三浦さんのドキュメンタリーが放映されていたのです。光世さんが左手に虫眼鏡を持ち、右手に持ったピンセットで魚の骨を一本一本抜いて、三浦さんに食べさせながら、こう話していました。

「介護するよりもされる方がつらいに決まっているんだから、綾子、もっとわがままを言ってもいいんだよ」

 彼は衝撃を受け、涙があふれ出して止まらなくなりました。「涙が止まった時、私の心は変わっていたんです」と彼は言ったそうです。

「それから妻の介護に喜びを感じるようになったんです。しゃべることができない妻の顔を温かいタオルで拭く。妻がにっこり笑う。その顔がかわいくて、かわいくて、新婚の時よりかわいいんです。介護はさらに十年続きましたが、それは地獄どころか、僕の人生の中で本当に幸せな日々でした」

 奥さんの介護に喜びを感じているうちに、ご自分のガンはどこかへ行ってしまったようです。

 物の見方次第で、人生は大いに変わるのです。