悲しみを抱きしめて生きる

掲載日:2026年2月1日(日)

頓智で有名な一休さんの話です。

 ある時、お金持ちの商人が一休さんに「初孫ができてめでたいから、一つ書を揮毫してほしい」と頼みました。

 一休さんは「親死ぬ。子死ぬ。孫死ぬ」と書きました。商人が「このめでたい時に縁起でもない」と言うと、一休さんはこう答えました。

「何を言うんじゃ。年を取った者から順番に死んでいく。こんなめでたいことはないし、こんなありがたいことはないぞ。可愛い子どもや孫が先に死んだら、どれほど悲しいことか」

 子や孫が先に亡くなることを「逆縁」と言いますが、確かにこれほど悲しいことはありません。一休さんの言われる通りです。

 

《ナイチンゲールが説いた悲しみの共感》

 近代看護制度を築いたフローレンス・ナイチンゲールは、クリミア戦争に従軍し、敵味方を問わず野戦病院で看護にあたりました。その慈悲深い行いから「ランプを持った天使」と呼ばれました。彼女の尽力によって看護制度が整えられ、看護学校も設立されました。

 その看護学校で、若い独身の看護師達にナイチンゲールはこう語りました。

「看護師になったら、あなた達が経験したことのないような悲しみや苦しみを理解し、共感しなければいけません。例えば、子どもを亡くした母親の気持ちです。それができなければ看護師になる資格はありません」

 慈悲の大切さを説いた話です。

《助産師・内田美智子さんが見た母の愛》

 助産師の内田美智子さんという方がいます。3000人以上の赤ちゃんを取り上げた方です。その著書に、「お産はおめでたいことばかりではないんです。死産などの悲しいできごともあるのです」と書かれています。

「ある妊婦さんの話です。妊娠10カ月に入った頃、胎動がなくなりました。診察の結果、胎児が亡くなっていることがわかりました。しかし、産まなければなりません。普通、お産の時、『頑張ってね。もうすぐ元気な赤ちゃんに会えるからね』と励ましますが、死産の時にはかける言葉がありません。分娩室では泣かない赤ちゃんの代わりに、母親の泣き声が響き渡りました。分娩の後、そのお母さんは『一晩だけでもこの子を抱いて寝たいのです』と言いました。私が真夜中にその病室を見回りに行くと、お母さんはベッドに座って、赤ちゃんを抱いていました。『大丈夫ですか?』と声をかけると『今、お乳をあげていたんですよ』と言いました。乳首からにじみ出てくる乳を指につけ、赤ちゃんの口元に移していたのです」

 その姿を見て、内田さんはそっと近づき、肩にやさしく手を置いたといいます。

 内田さんは言われます。

「どんなにその子におっぱいを飲ませたかったことか。泣かない子でも、その子の母親でありたいと思うのが母親なんです」

 ナイチンゲールは、内田さんのような看護師を育てたかったのであろうと思います。

 

《涙を流すことは大切な営み》

 私は毎月『致知』という雑誌を購読しています。ある号に「涙を流す」という特集があり、子どもを亡くされた三人のお母さんの話が載っていました。その中の一人、結星蓉子さんの話を紹介します。私も読みながら泣いてしまいました。

 蓉子さんは娘の里紗ちゃんを8歳で亡くしました。亡くなってから23年が経ち、今は同じように悲しみ、苦しんでいる人を励ますカウンセラー・コーチをしています。

 1993年6月23日、蓉子さんが24歳の時に里紗ちゃんを出産しました。切迫早産で未熟児でした。生後1カ月を過ぎた頃から、泣いただけで顔が紫色になったり、足がすぐにパンパンに腫れたりと、〝何かおかしい〟と感じたそうです。

 近所の小児科病院では血液検査も心音も「異常なし」と言われました。しかし、母親の第六感で〝大きな病院に行った方がいい〟と思い、東京の大きな病院で診察を受け直しました。しかし原因がわからず、生後二カ月から一年三カ月間、検査入院しました。発育が遅く、医師も違和感を覚えていたようですが、原因は特定できないまま退院しました。

 里紗ちゃんは2歳になる頃、突然髪の毛も眉毛もすべて抜けてしまいました。蓉子さんは〝そのうち治るかもしれない〟と思っていましたが、ほどなくして医師から「プロジェリアという病気です。長くは生きられません。現代では治療法もありません」と告げられました。

 プロジェリアとは800万人に一人という稀な病気で、健常者の十倍の速さで老化が進む病気です。

 宣告を受けた蓉子さんは「私は怖くなりました。いずれ娘を見送らなければならない。その時がいつ来るかわからないという未来への恐怖です。さらに過去への後悔も湧いてきました。妊娠中に悪いことをしたのではないかと、私は自分を責めてしまいました」と語っています。

 そんな蓉子さんをよそに、里紗ちゃんは言葉を覚え、何気ない会話が楽しくできるようになりました。しかし、普通ならうれしい誕生日が、祝うたびに死が近づくようで複雑な思いでした。体が弱く、点滴をするたびに泣き叫ぶ里紗ちゃんを見て、〝健康に産んであげられなくてごめんね〟という思いで胸が締めつけられました。

 やがて蓉子さんはうつ病を発症し、〝数年後に里紗は死んでしまう。その後、生きていく自信がない。いっそ今みんなで死んでしまおう〟という一家心中の考えまで浮かびました。

 しかし、うつ症状が出て三カ月ほど経った頃、里紗ちゃんが無邪気な笑顔で「ママ元気出して、一緒に遊ぼうよ」と言ったのです。その言葉で蓉子さんは気づきました。

〝今この子は笑っている。今この子は楽しそうに遊んでいる。今を精いっぱい生きているんだ。この「今」を大切にしなければ、この子を幸せにすることはできない。過去を悔やむのでも、未来を恐れるのでもなく、今を積み重ねて生きていこう〟

 里紗ちゃんは知能や感覚は全く普通でしたが、関節や皮膚が硬く、床に座るのもひと苦労でしたので、蓉子さんは常に気を遣っていました。特に気を遣ったのが髪の毛のことでした。いじめられないようにウィッグ(かつら)を被せていました。

 しかし、「今」に気づいてから、蓉子さんは里紗ちゃんの気持ちを聞いて、できるだけ健常な子と同じようにやりたいことをやらせようと決めました。

 幼稚園に上がる時、先生が「ウィッグをやめて帽子で通ってみない?」と言うと、里紗ちゃんは即座に「うん、帽子でいい」と答えました。それ以来、ウィッグなしで運動会でも芋掘りでも英会話でも、何でも挑戦しました。

 小学校入学の時には「ママ、これからどんなことがあっても里紗は頑張るからね。ママも頑張ろうね」という手紙をくれました。入学時の身長は90センチ。平均より30センチ低い小さな体でした。

 蓉子さんの好きなバンドのライブに連れて行く時、蓉子さんが「ウィッグに色をつけて被っていこうか」と言うと、里紗ちゃんは強い口調で「つけないよ。だって本当の里紗じゃなくなるから」と言いました。蓉子さんは〝この子は私が思う以上に自分の運命を受け入れている〟と感じ、自分が恥ずかしくなったといいます。この日以来、蓉子さんは〝この子に学ばせてもらっている〟という思いが強くなったそうです。

 仕事がうまくいかず悩んでいた時、里紗ちゃんは「ママ、何かあったの?本当に困った時は里紗が助けてあげるからね」と大人のように言ったそうです。

 2年生になると、二人でピアノの連弾の発表会にも出ました。しかし、小学3年生になる年の2月、ご主人が留守番で蓉子さんが仕事に出かけた日、里紗ちゃんが「ママ、夕ご飯は一緒に食べようね。行ってらっしゃい」と見送りしました。それが最後の会話になったのです。友達と家の前の公園で遊んでいる時に倒れ、千葉大学病院に救急搬送されて七時間に及ぶ処置の末、息を引き取りました。8歳8カ月でした。蓉子さんが33歳の時です。

 亡くなった時も、葬儀の時も、蓉子さんは大声で泣けませんでした。〝里紗の方が苦しいのに、自分が悲しいなんて思ってはいけない〟とずっと感情に蓋をしてきたのです。その後も〝里紗の分も頑張らなければ〟と精神安定剤や睡眠薬を飲みながら働き続け、やがて体を壊し、フォーカルジストニアという病気で右手が動かなくなり、心臓にも問題が生じてペースメーカーを入れることになりました。そんな時、病院のベッドで〝生きているだけでいい。無理しなくていいんだ〟という思いが込み上げてきたそうです。

 45歳の時、あるセミナーで講師が「辛かった、苦しかったという気持ちを否定しないで、認めてあげていいのです」と語りました。その瞬間、蓉子さんは涙があふれました。蓉子さんは言われます。

「娘との別れから十二年、抑え込んでいた感情と初めて向き合えました。弱い自分を受け入れたこの日を境に人生が大きく変わりました」

「今を大切に輝かせれば、過去も未来も輝く。そのためにも涙を流すことは大切な営みなんです。泣きたい時というのは心が泣くことを求めている時です。人前で泣けないなら一人で泣いたらいい。涙を流すことは決して弱さでも敗北でもありません」

 

《悲しみは悟りへの道》

 ほかにも二人のお母さんのエピソードが紹介されていました。その一人が本郷由美子さんです。大阪教育大学附属池田小学校で8人の児童が殺害された事件で、娘さんを亡くされました。この方も今、人生の苦しみや悲しみを抱える人達に寄り添う活動をしています。本郷さんは言われます。

「私は『悲しみを乗り越える』という言葉を使わないんです。悲しみは、現在進行形です。〝乗り切ることはできても乗り越えることはできない〟と実感しているからです。『悲しみの根源には愛情と愛着がある』という言葉がありますけど、悲しんで哀しんで悲しみ尽くし、自分なりに折り合いをつけると悲しみの根源にある愛に気がつき、いつしか悲しみの涙の質が変わってきて、安らぎを得た温かい涙として流れてくるようになります。悲しみと向き合うことで心が成長し、成熟できるようです。悲しみは人間にとって大切なものであり、私はこれからも悲しみを愛おしきものとして抱き締めて歩いていきたいと思っています」

 本郷さんの対談相手の元聖心女子大学教授でシスターの鈴木秀子さんが大変蘊蓄のある話をしておられます。少し長いですが引用させていただきます。

「私はこれまで多くの方の苦しみや悲しみに接してきましたけど、一番辛いのは我が子が自殺してしまうことです。本郷さんの場合は、外からの力で悲しい結果が起こってしまいましたが、これが自分のせいで子どもが自殺したとなるとなかなか拭い難いんです。ある医学部5年生の女の子は、母親が立派な医者になるようにあまりに強く言ったもので、最後はやりきれなくなって首を括って亡くなってしまいました。彼女はお母さんと二人暮らしでしたから、母親は〝自分のせいで死なせてしまった〟という自責の念と、娘を失った悲しみから長い間抜け出せなかったんです。

 もう一人は水泳の女子選手で、明日が予選でオリンピック出場が決まるかどうかという前の夜に、飛び降り自殺をしました。この子の場合も母親からの〝頑張れ、頑張れ〟というプレッシャーに耐えられなくなったのですが、我が子を失った母親の悲しみや苦しみはやはり言葉では言い尽くせないものがありました。このような時に、何がその人にとっての救いになるかというと、いろいろな人のさりげない優しさなんです。母親は自分が大切だと思うことを我が子に伝えようとした。だから自分を責める必要はない。そういうふうに周りの人達が助け、自分を許すことができると、〝ああ、娘はあの年まで自分の人生を頑張って生き通せたんだ〟と死を受け入れられるようになるんです。そして、天国の娘が喜ぶような生き方をしようと、人生が大きく転換していくんです。そして、〝今度は苦しんでいる人達のために自分にできることを〟という気持ちになった時、二歩も三歩も前進しているんです。自分や誰かを責め続けているうちは事態は変わりません。私達の人生で起きる出来事は、善い・悪いと簡単には判断できません。結局はそれをどのように捉え、どのように生かすか、そこに悲しみに向き合い、越えていくポイントがあるように思います」

 結星さんも本郷さんも、鈴木さんの言われる二歩も三歩も前進した人だと思います。

 

 法華経・如来寿量品に「常懐悲感 心遂醒悟(常に悲感を懐いて、心遂に醒悟す)」という有名な一節があります。この寿量品には「良医治子」の譬えが説かれています。毒(貪・瞋・痴)を飲んだ子ども達(衆生)に薬(法華経・お題目)を飲ませようとする医師(仏さま)の話です。

 本心を失ってしまった子ども達は薬を飲もうとしません。そこで医師は方便として人を遣わせて「お父さんは遠くへ行って死んでしまった」と伝えさせます。それを聞いた子ども達は父の死を悲しみ、その悲しみによって心が目覚め、薬を飲みます。

 お釈迦さまは説かれています。

「深い悲しみを抱き続けることによって人は覚醒し、悟りに近づくのである」と。