今から116年前、杉山辰子先生が法音寺の前身である「仏教感化救済会」を創設されました。その後、法音寺となるまでに何度も名称が変わっています。「仏教修養団」「仏教感化修養団」「仏教澍徳修養団」「大乗修養団」と、いずれの名称にも「修養」の文字が含まれていました。修養とは、日々努力を重ねて人格を練り上げ、高めていくことを意味します。先師は修養をとても重んじておられたのです。
最近ではあまり「修養」という言葉が使われなくなりました。堅苦しいものと思われているのかもしれません。しかし、私は人格を陶冶するために修養は非常に重要であると思います。
《日常こそ修養の場》
中国・明の時代、今から約500年前、陽明学を大成した王陽明は、「事上磨錬」という教えを説きました。事上磨錬とは「人はすべからく事上に在って磨錬し、工夫を做すべし」ということで、この「磨錬し、工夫を做す」というのが修養するということです。「事上に在って」とは、「実際の事柄に即して」ということです。つまり、毎日の仕事はもちろん、挨拶や食事、掃除といった日常生活のすべての行いを修養と思って、心を込めて誠実に実践するということです。それによって気づきが深まり、人格が高められるということです。
《イチローさんの名言に学ぶ》
以前、毎日新聞に福岡ソフトバンクホークスの監督・小久保裕紀さんの文章が掲載されていました。小久保さんはイチローさんとの忘れられないエピソードがあると書いておられました。
小久保さんはプロ二年目で本塁打王を獲得しましたが、翌シーズンは慢心があったのか、成績が大きく落ち込みました。一方のイチローさんは三年連続の首位打者に驀進中という時のことです。
「その年のオールスターゲーム、二人で外野をランニングしながら、彼に聞いた。
『モチベーションが下がったことはないの?』
するとイチローは私を見つめながら、『小久保さんは数字を残すために野球をやっているんですか?』と言った。
『僕は心の中に磨き上げたい石があります。それを野球を通じて輝かせたいのです』
自分はなんと恥ずかしい質問をしたのかと、顔が赤くなった。彼の一言で〝野球を通じて人間力を磨く〟というキーワードを得た」
ちなみに、イチローさんはその後七年連続で首位打者となり、これは現在も破られていない日本記録です。アメリカ大リーグに渡った初年度にも首位打者となり、実質的に八年連続の快挙です。
また2004年には大リーグのシーズン最多安打記録を84年ぶりに更新し、この記録は現在も破られていません。通算4367安打のギネス記録を持つイチローさんは、今年日本人で初めて大リーグの殿堂入りを果たしました。記者投票の得票率は99・7パーセントでした。満票には一票足りませんでした。イチローさんはその時、「一票足りないのはすごく良かった。完璧を追い求めて進んでいくのが人生。不完全であることが良いのです」と語ったそうです。求道者イチローさんの面目躍如たるところだと思います。
《自助論との出会いと日本の修養時代》
日本は明治から大正にかけて、言うなれば「修養の時代」でした。明治維新によって士農工商という身分制度が廃止され、どのような身分の人でも努力すれば立身出世ができるようになりました。つまり、修養と努力によって道が開かれる時代になったのです。
明治維新の少し前、江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜の命により、中村正直という人物がイギリスへ渡航しました。彼は、12人の旗本の優秀な若者達の留学を監督するという立場で派遣されたのです。中村正直は、昌平黌という、現代で言えば東京大学のような幕府の学校の開学以来の秀才でした。
当時のイギリスは「大英帝国」として七つの海を支配する世界最強の国でした。しかしよく見れば、日本と同じような小さな島国です。中村正直は〝なぜこの小さな国が世界を制するほどの大帝国になれたのか〟と疑問を抱き、人に話を聞き、さまざまな資料にあたりましたが、答えは得られませんでした。
そして中村正直が帰国することになった時、イギリスで親しくなった人物が当時、イギリスでベストセラーになった『セルフ・ヘルプ』という本を餞別にくれました。
この本は日本語で『自助論』と訳されます。帰国の船旅の中でこの本を読んだ中村正直は、〝これがイギリス繁栄の理由だ〟と確信しました。
『セルフ・ヘルプ』とは、「天は自ら助くる者を助く」、すなわち「自助努力し、修養をする者こそが天に助けられる」ということです。この本には独立独行の精神を思想的根幹とした、欧米史上有名な三百余人の成功立志談が載っています。中村正直は〝イギリスには自助努力の精神を持つ人が多く、その結果として国が繁栄した〟と考えたのです。
中村正直は、日本に帰国後、すでに幕府はなくなっていましたが、徳川慶喜のいる静岡に赴いて、帰国の報告をし、そこで『セルフ・ヘルプ』を翻訳し、『西国立志編』と題して出版しました。『セルフ・ヘルプ』の自助努力の精神は、近代国家と資本主義の形成期にあって、新しい日本と自分の前途に不安を抱いていた多くの青年達に希望の光明を与えました。この本は福沢諭吉の『学問のすすめ』とともに明治の二大啓蒙書です。大正時代の思想家・吉野作造は「福沢諭吉は明治の青年に、日本人の『智』の世界を開いた。また『徳』の世界を開いたのは中村正直である」と言っています。
《心学に見る修養思想》
実は日本にはもともと、修養を重んじる伝統的な思想が存在していました。それは「心学」です。江戸時代の中期、徳川吉宗の時代から広まったとされています。
心学は、神道・儒教・仏教のそれぞれのエッセンスを取り入れ、わかりやすく実践的な教えにまとめた学問です。心学では「人間には心がある。心は玉のようなものだ。玉であれば、これを磨いて立派にすればいいはずだ」という考えから、「玉を磨くには磨き砂が必要である。その磨き砂は神道でもいいし仏教、儒教でもいい。また三つ合わせたものでもいい」としています。しかも心学は、高いところから一方的に教えるのではなく、聞く人と同じ目線まで下りてきて「良かったら聞いていきなさい」という姿勢で伝えます。
心学の歌に「分け登る 麓の道は多けれど 同じ高嶺の月を見るかな」とあります。〝山に登る麓の道は多いけれど、登ってみれば峰から見える月は同じだ〟という意味ですが、これが心学の思想です。
心学で最も有名な人物が石田梅岩です。彼の教えは「石門心学」と呼ばれ、現代でも多くの人に読まれています。
石田梅岩の『心学全集』の中に、次のような問答があります。
ある日、ひとりの弟子が梅岩に尋ねました。
「忍ということの極致とは、どういうものでしょうか」
すると梅岩は答えました。
「忍は、忍なきに至ってよしとす」
つまり、〝我慢しよう〟とか〝忍耐しよう〟といった意識がなくなった状態が、堪忍の理想であるというのです。至極あたりまえに無意識の内に堪忍できるのが最高の境地とされるのです。非常にむずかしい境地ですが、心学ではここに至るために「堪忍」についての教えが非常に多く見られます。
ここで心学の堪忍の話を一つ紹介します。
江戸時代後期、天保年間の頃のことです。福井藩の馬廻り役をつとめていた三好泰輔に、松之助という息子がいました。松之助の姉は重要な地位にある人と結婚していたので、彼は同輩のねたみを受けることになりましたが、縁故を利用して立身出世することを嫌っていた松之助は、なにごとも控えめに、また謙虚な態度を守っていました。
ある日、藩の有力者の家を訪れ、その帰りを待っていた時のことです。隣室に藩中の若侍が五、六人集まり、松之助の噂をしています。
「女のお陰にすがらなければ、武士として出世できない男ほど、恥ずかしいことはないな」
こんな言葉が笑いとともに聞こえてきます。松之助はカッとして、太刀の鯉口を切り、庭に出て隣の部屋に躍り込もうとしました。その途端、彼の足が庭の敷石近くに生えていた『おじぎ草』に触れました。すると、おじぎ草は見る間に頭をたれ、しぼんでいきました。松之助は、
〝ああ、この小さな草にさえこの忍耐がある。人間である自分が、このぐらいのことで怒ってどうする。がまんしよう〟と思い、そのまま怒りを静めて自分の家へ帰っていきました。後年、松之助は藩の中でも異例の出世をしましたが、彼の刀の柄袋には「おじぎ草」の絵が描かれ、いつも彼はそれを心の戒めとしていたということです。
《ユーモアで伝える心学》
心学の先生達は人を集めては教えを説いていました。ひとりの心学の先生が、ある村で話をした時のことです。
「皆さん、堪忍をしましょう。『堪忍』というこの二文字を守れば、人生は安泰です」と言うと、漢字の読めないおじいさんが「先生、『かんにん』は四文字じゃないですか?」と尋ねました。
先生は「いやいや、堪忍は二文字です」と返しましたが、おじいさんは「どう数えても四文字じゃ」と譲りません。ついに言い合いになってしまい、ついに先生が堪忍を破って「馬鹿者!堪忍は二文字だ!」と怒鳴ってしまいました。するとそのおじいさんが言いました。「やっぱり堪忍は四文字だな。わしは〝四文字の堪忍〟を守っとるから怒りませんよ」と——これは心学の先生が一本取られたというユニークな話です。
落語の中にも、心学の先生が登場する演目があります。その一つが『天災』という噺です。
主人公は、とても喧嘩っ早い八五郎という男です。ある日、八五郎が近所のご隠居のもとを訪ね、「離縁状を二通書いてほしい」と頼みます。ご隠居が事情を尋ねると、「かかあがあまりにも頭にくるんで張っ倒してやった。もう離縁する」と八五郎は言います。ご隠居が「では離縁状のもう一通は誰に渡すんだい?」と聞くと、「それはババアにくれてやるんだ」と答えました。ババアとは八五郎の母親のことです。
「かかあを張っ倒したら、ババアが仲裁に入って、かかあの肩を持ちやがった。だから今度はババアを蹴飛ばしてやったんだ」
これはいかんと思ったご隠居は、「まあ、離縁状は書いてやってもよいが、その前にちょっと手紙を書いてやる。この手紙を持って、近所に住んでいる心学の先生のところに行って、話を聞いておいで」と言います。
八五郎がその手紙を持って心学の先生のもとを訪れると、先生は〝なるほど、これは気性の荒い男を諭してくれという頼みだな〟と理解し、教えを説き始めます。
「短気は損気」「ならぬ堪忍するが堪忍」「堪忍の袋を首にかけ、破れたら縫え、破れたら縫え」「気に入らぬ風もあろうに柳かな」などと話しますが、八五郎はまったく聞く耳を持ちません。
そこで最後に心学の先生はこう言いました。
「何事も〝天災〟と思ってあきらめよ。急に雨が降ってきても、天と喧嘩はしないだろう。人に嫌なことをされたとしても、天災と思えばいいんだ。道を歩いていて小僧が打ち水をして、その水がかかったとしても、〝天が水をかけたのだ〟と思えば腹も立たない。路地を歩いていて瓦が落ちてきても、〝これは天が瓦を落としたのだ〟と思えば怒りようがない」
それを聞いた八五郎は、「確かにそうだな。天災だと思えば腹も立たない。ありがとうよ」と言って帰っていきました。
心学の先生が「茶も出さず、お構いもせず申し訳なかったな」と声をかけると、八五郎は「何、天が茶を入れなかったんだ。天災とあきらめれば、なんでもねえや」と言い残して帰っていきました。先生は「少しは進歩したか」と苦笑しながら、八五郎を見送りました。
八五郎の長屋の隣には熊五郎という男が住んでいました。熊五郎は現在、女房と別れており、別の女性と暮らしていました。その日、たまたま別れた女房が家に来て、騒動になっていました。
そこに八五郎が帰ってきました。〝これはいい機会だ。先生に聞いた話を熊さんに教えてやろう〟と思うのですが、うろ覚えのため話が伝わりません。
「短気は損気」を「たぬきはたぬき」、「ならぬ堪忍するが堪忍」を「奈良の神主、駿河の神主」、「堪忍の袋を首にかけ、破れたら縫え、破れたら縫え」は「神主の頭陀袋、破れたら縫え、破れたら縫え」、「気に入らぬ風もあろうに柳かな」は「気に入らぬ風もあろうにウナギかな」などと、意味不明なことを言ってしまいます。
熊五郎が「結局、何が言いてえんだ」と言うと、八五郎はこう締めくくります。
「いやいや、どんなに女房が怒鳴り込んでこようともな、天が怒鳴り込んできたと思えばいいんだ。天災だと思えばいいんだよ」
これに対して熊五郎が言った一言が落ちとなります。
「家に来たのは先妻だ」 このように、修養は時代や宗教を超えて、人間がより良く生きるための根幹にある考え方であると思います。