凡事徹底

掲載日:2025年5月1日(木)

「掃除の神さま」と呼ばれたイエローハットの創業者・鍵山秀三郎さんが、今年の1月2日に91歳で亡くなりました。鍵山さんは高校卒業後、自動車部品販売店に就職し、その後、ローヤル(現・イエローハット)を創業。自転車での行商から始めた同社を日本有数の自動車用品チェーン店に育て上げました。

 鍵山さんといえば、「トイレ掃除」です。当時の自動車用品の店はどこもきれいではありませんでした。そのため、〝社員が働く環境をきれいにしたい〟〝社風を良くしたい〟という一心で、たった一人で会社のトイレ掃除を始めたのです。当初は、社員が用を足している横で社長の鍵山さんが便器の掃除をしていたそうです。

 黙々たる実践が十年続いた頃には、一人、二人と自主的に手伝う社員が出てきました。やがて会社全体に広まり、社風が格段に向上したそうです。

 鍵山さんは「箸よく盤水を回す」と言われていますが、正にその通りになったのです。盤水とは、たらいの中の水のことです。箸一本で回しても、最初は箸しか回りません。ところが、根気よく回し続けていると、水全部が大きな渦になって回るようになるのです。

 鍵山さんは、さらに〝世の人々の心の荒みをなくしたい〟という思いで「掃除道」を進まれました。すると、その姿勢に共鳴する人達がどんどん現れました。その後、各地に「掃除に学ぶ会」ができました。それが今、「日本を美しくする会」となり、鍵山掃除道は国内だけでなく世界中に広がっています。

「日本を美しくする会」の活動で有名なのが歌舞伎町クリーン作戦です。東京都新宿区歌舞伎町は日本一犯罪が多い場所でした。当時の副知事が〝どうにかしたい〟と、鍵山さんに声をかけたのです。

 そして、月に一度早朝に「日本を美しくする会」の人達が中心になって、多い時は200名以上が参加して、徹底した掃除を続けた結果、一年後には犯罪件数が50%以上減少したということです。

 また校内をオートバイが走るような学校の校長先生からも声がかかりました。そこで「日本を美しくする会」と先生と生徒と保護者会とで協力して掃除をしました。するといつの間にか、地域のモデル校になったという話があります。

 私が鍵山さんを最初に知ったのは致知出版社の本です。それから法話で鍵山さんのことを紹介しましたら、亀岡布教所の田中節子さんが、「私の主人は『掃除に学ぶ会』の会員です。よく鍵山先生と一緒にいろいろな学校の掃除に行っております」と言われました。そして鍵山さんの講演のテープを戴き、何度も聞いたことを思い出します。

 その頃、日蓮宗保育連盟の大会が名古屋であり、連盟から「しかるべき人に講演を依頼してほしい」と言われました。〝これはもう絶対鍵山さんだ〟と思い、早速田中さんに相談しました。田中さんは、すぐに鍵山さんに取り継いでくださり、鍵山さんは快く引き受けてくださいました。直接鍵山さんの講演を聞いて非常に感動したのを覚えています。

 その後、鍵山さんの講演を聞きに東京まで行ったこともあります。最初に私が読んだ鍵山さんの本は『凡事徹底』という講演録です。その本の中にこう書かれています。

「『うちの会社は、掃除をしようとしてもなかなかできないんですよ』と言う会社があります。それは、一度にやろうとするからです。いま不幸にして、非常に会社が汚いとします。その汚い会社をきれいにするときは、ほんの一部分ずつからやることです。例えば、Pタイルを一日に二十枚ずつ、廊下を五メートルずつ、階段を一階から二階の途中まで、明日は二階まで、というふうに区切って一部分ずつやる。そして、やる時には徹底してやると、汚いところときれいなところとの差がはっきりしますから、後がやりやすくなってきます。清掃・清潔が大事だからといって、全社を二日、三日のうちにきれいにしようなどとしても、できません。そしてまた、やってもすぐ元に戻ってしまいます。そのことを陶芸家の河合寛次郎先生は、『一人光る。みな光る。何も彼も光る』という言葉で言い表しています。職場の中でも、『みんなでやろう』などと言わなくても、私一人、まずコツコツとやる。そのひたむきな姿に共鳴者が現れてきて、いつの間にかみんなが光る。そして、さらにそれを徹底して継続をしていると、何もかも光るようになる。この順番です。ところが、いまは、いきなり最後のところからやろうとする人が多い。私どもの会社にも、朝早くから経営者の方や幹部の方が九州や北海道や東北から飛行機に乗って、費用をかけて掃除研修に来られます。なかに、ものすごく感激した社長が、『これはすばらしい。明日から全社でやります』と意思表明される方もいますが、私は『そんなことは絶対駄目です。そんなに感激したのなら、まず、あなたが明日からやってほしい。そして、できれば最初は自分がやっていることも人に知られないくらい早く行って、社員が来たら、誰がやったか知らないけれども、トイレがきれいになったというようなところから、一人光るところから始めてほしい』というお話をしているわけです。そういうふうな入り方をしないと、物事はうまくいかないと思います。このように特別なことをするより、〝あたりまえの平凡なことを非凡にする〟という考えから、少し前向きな良い思想がわいてくるのです」

 要するに「凡事徹底」です。〝平凡なことを非凡に徹底してやる〟ということです。また次のようにも言われています。

「微差、僅差の積み重ねがついには絶対差となる」

つまり、〝小さな差の積み重ねが一生の間には大きな差になる〟ということです。

 

 今回もう一人、凡事徹底の人を紹介します。フランス料理の世界的シェフ・三國清三さんです。この方は鍋洗い、皿洗いを続けて、世界有数のシェフになったという人です。三國さんはつい最近まで『オテル・ドゥ・ミクニ』というレストランのオーナーシェフでした。今は37年間やってきた店を閉められ、自分一人でやれるカウンター8席の小さな店を新たに始める準備中だそうです。

 フランス料理の世界トップシェフ5人の内の一人に選ばれた三國さんの始まりは、お母さんの「食いっぱぐれないから飯屋になれ」の一言だそうです。中学を卒業してすぐに札幌に出て、米屋に住み込みで働きながら、夜間の調理師学校に通いました。その米屋の娘さんが料理の上手な人で、洋食をよく作ってくれたそうです。増毛という漁師町で育った三國さんはそれまで洋食を食べたことがありませんでした。マカロニグラタンやポークソテーを食べ、ハンバーグも食べました。黒いソースのかかったハンバーグを最初、〝黒いキノコだ〟と思ったそうです。お母さんに「黒いキノコには毒があるから気をつけろ」と聞いていたので、手をつけませんでした。「キノコじゃないから食べなさい」と、その娘さんに言われて食べたところ、〝おいしいことこの上ない〟とハンバーグが大好きになり、その時、西洋料理人になろうと決めたそうです。また、その娘さんに、「清三ちゃん、札幌グランドホテルのハンバーグはこの何倍もおいしいのよ」と言われ、〝札幌グランドホテルに勤めたい〟と思い始めたそうです。

 札幌グランドホテルは当時「北の迎賓館」と呼ばれ、天皇陛下や要人が食事をしたり、宿泊する有名なホテルです。三國さんは〝そこで働きたい〟と思ったのですが、その娘さんに「清三ちゃん、あんたは中卒だから駄目よ。あそこは高卒じゃないと取ってくれないから」と言われてしまいました。しかし、三國さんは全くあきらめませんでした。

 調理師学校の卒業研修が「テーブルマナーを学ぶ」という研修で、札幌グランドホテルでの実地研修でした。テーブルマナーの後に厨房見学があり、みんなは帰ったのですが、三國さんは厨房に隠れました。三十分ぐらい隠れていると偉そうな人が来たので、いきなり駆け寄っていき、「雇ってください」と直談判しました。その人はびっくりして、聞きました。

「なんだお前!どこから来たんだ!」

「増毛町です」

「あんな遠くから来たのか」

「いくつだ」

「16歳です」

「しょうがないな。まあ、アルバイトで雇ってやるよ」

 そうして三國さんはアルバイトとして札幌グランドホテルで働くことになったのです。そこでの仕事は、従業員食堂での下働きでした。当然、大した仕事はありません。三國さんは、周りをよく観察しました。ホテルは非常に繁盛していて、常に鍋や皿などの洗い物が山のようにありました。それを先輩達が夜、五~六人で四~五時間かけて洗っていました。その様子を見ていた三國さんは、「僕がやります。暇ですから」と言って、毎日一人でピカピカにしました。先輩達にすごく喜ばれたそうです。それを半年くらい続けると、最初に雇ってくれた人に、「三國、明日から正社員だ」と言われました。念願が叶ったのです。もともと才能があったのでしょう。料理がどんどんうまくなり、18歳の時にはかなりの腕前になっていたといいます。

 すると、ちょっと鼻が伸びてきました。そこで先輩から「三國なあ、少しぐらい仕事ができたからっていい気になるな。上には上がいるぞ。東京にはフランス料理の神さまがいるんだ。日本一の帝国ホテルの村上信夫さんだ。ムッシュ村上と呼ばれている人だ」とたしなめられました。三國さんはすぐに、〝ぜひ帝国ホテルに行きたい。村上さんに会いたい〟となり、もう止まらなくなりました。

 札幌グランドホテルの総料理長に頼み込んで紹介状を書いてもらい、それを東京に行って村上さんに直接手渡しました。時はオイルショックの頃です。村上さんが言いました。

「帝国ホテルでも今不況で希望退職者を募っているところなんだ。社員にはすぐには採用できないけど、パートで洗い場の担当だったら採用できる。そこで正社員になる順番を待ってくれ」

 三國さんは「はい」と答えて、それから三年間、鍋洗いを続けたそうです。その鍋洗いは徹底していて、毎日毎日ピッカピッカに磨き上げたそうです。

 ちょうど20歳になった時、欠員が出たら正社員になれるという制度がなくなってしまいました。次が三國さんというタイミングでした。がっかりした三國さんは〝故郷の増毛に帰る前に、最後にホテル中のレストランの鍋をすべてきれいにして自分の爪痕を残しておこう〟と鍋磨きを始めると、突然村上さんに呼ばれたのです。「もう増毛に帰りなさい」と言われるかと思ったら、「スイスのジュネーブに行きなさい。君を今度赴任する大使の料理人に推薦しました」と言われたのです。

 周りの人達は「なぜ鍋洗いしかしていない三國をそんなところに行かせるんですか」と反対したそうです。それもそのはず、当時の帝国ホテルには優秀な料理人が何百人もいたのです。

 その時に村上さんは、「鍋洗い一つ見れば、その人の人格がわかる。技術は人格の上に成り立つものだから、あいつだったら間違いないと私は思ったんだ」と言われました。

 後に村上さんは著書の中に書いています。

「当時、三國君はまだ20歳の若者だった。しかも帝国ホテルでは鍋や皿を洗う見習いだったため、料理を作ったことがなかった。しかし彼は、鍋洗い一つとっても要領とセンスがとても良かった。(中略)私が特に認めたのは、塩のふり方だった。厨房では俗に〝塩ふり三年〟と言うが、下ごしらえの手伝いで彼は素材に合わせて、実に巧みに塩をふっていた。実際に料理を作らせてみなくても、それで腕前のほどがわかるのだ」

 そして、三國さんはスイスに行くことになりました。その時の大使は小木曽本雄さんという方で、普通の大使ではなく、ジュネーブ軍縮会議日本政府代表部に派遣された特命全権大使でした。三國さんが大使公邸に着任した途端、大使から「一週間後にアメリカ大使を晩餐会に招くから、私達を含めて12名分のフルコースを頼む」と言われました。三國さんはびっくりしてしまいました。フルコースなんか作ったことがなかったのです。とりあえず「はい」と答えて、どうしたものかと考えていると、そこでひらめいたのです。まずアメリカ大使がいつも利用しているレストランを調べました。ミシュラン二つ星の「リオン・ドール」というレストランでした。そこに、「日本大使の料理長が研修に行くから教えてやってくれ」と電話をしました。そして、大使には「赴任したばかりで少し疲れていますから、三日間休ませてください」と言って、「リオン・ドール」に行き、アメリカ大使が好んで食べているすべての料理を三日間で味も作り方も全部覚えてしまったのです。本番当日は12名分の料理を三國さん一人で作りました。

 晩餐会が終わった後に大使から言われました。

「三國君、とても良かったよ。それと、アメリカ大使が『なぜお宅の料理人は僕らの好みをよく知っているんだ』と言われたよ」

 三國さんはその理由を言わなかったそうですが、大使に「この調子で頑張ってくれ」と言われ、結局三年八カ月、ジュネーブの大使公邸に勤めました。

 最後の夜に大使の奥さんから言われたそうです。

「今だから言えるけど、村上料理長にあなたを推薦された時、『いくらなんでも20歳の子を連れて行けません』と言ったのよ。でもね、村上さんから『三國なら大丈夫。私を信じてください』と言われたから、それで仕方なく連れてきたのよ」

 三國さんは言われます。

「天皇の料理番と言われた宮内庁主厨長の秋山徳蔵さん、また村上料理長も若い頃はずっと鍋洗いばかりだったと聞いています。下積みの鍋洗いがやっぱりその料理人の人格を作るんだと思います」

 スイスに行く前に村上さんが言ったそうです。

「十年間は辛抱して修行してきなさい。十年後には必ず君達の時代が来ます」

 三國さんは、八年間のヨーロッパでの修行を経て、十年後に四ツ谷に『オテル・ドゥ・ミクニ』を開業して、世界有数のシェフになりました。その基礎には「凡事徹底」の鍋洗いがあったのだと思います。