子どもに対してかける言葉

掲載日:2022年10月1日(土)

子どもとともに時間を過ごしていると、〝こんなことができるようになったのか〟〝なんて感性が豊かなんだ〟と驚かされることがよくあります。「親バカ」と言われようが、できることならば、子どもの得意なこと、好きなことを見つけて、そこを伸ばしてあげたいと考えるのが、親というものだと思います。偉人の中には、幼少期にかけられた親の言葉をじっと心に留めて、その才能を伸ばしたというケースも少なくありません。

漫画家の手塚治虫さんは、『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『リボンの騎士』『火の鳥』『ブラック・ジャック』など数多くのヒット作を世に送り出しました。どの作品も時代を越えて愛されており、「漫画の神様」と呼ばれるにふさわしい功績を残しています。アニメーションの制作においても革命を起こしています。日本最初のテレビアニメ『鉄腕アトム』の成功によって「テレビアニメ時代」が到来したのです。
 アトムは世界にも飛び出しました。アメリカでは『アストロボーイ』と改名されて放映され、その後、イギリス・フランス・西ドイツ(当時)・オーストラリア・台湾・香港・タイ・フィリピンなど、世界40カ国以上で放映されました。ちなみに、アメリカでは、当時ニューヨークの6時半から7時の時間帯で最高視聴率を記録しています。
 このように日本の漫画界に金字塔を打ち立てた手塚さんですが、その才能を伸ばしたのはお母さんです。手塚さんの豊かな発想力に気づいたお母さんは「民話」や「おとぎ話」、自作の「創作話」、時には「漫画」を毎晩、情感たっぷりに手塚さんに読み聞かせたそうです。
 手塚さんが言っています。
「小さい子どもは、口伝えで物語を聞かせてもらうとよく心に残るものです。話を聞きながら、イメージで頭の中にその場面とか、出てくる人間の姿とか表情を見ることができるのです」
 小学生になると手塚さんは、自分で話を作り漫画を描くようになりますが、先生に見つかり、こっぴどく叱られ、お母さんが呼び出されました。帰宅したお母さんが手塚さんに言いました。
「どんな漫画を描いていたのか見せてちょうだい」
 手塚さんのノートをじっくり見て、お母さんは言いました。
「治ちゃん、この漫画はとてもおもしろいわ。お母さんはあなたの漫画の、世界で第一号のファンになりましたよ。これからもお母さんのために、おもしろい漫画をたくさん描いてね」
 お母さんの言葉を受けて、ますます創作に励んだ手塚さんは、その一方で大阪帝国大学付属医学専門部(現大阪大学医学部)に通い、医師免許を取得。在学中から漫画家として活動していましたが、やがて両立に苦しむようになります。手塚さんがお母さんに相談すると、「あなたは漫画と医学とどっちが好きなの?」と聞かれ、手塚さんが躊躇なく「漫画です」と答えると、お母さんはあっさりと「それなら、漫画家になった方がいいわ」と言いました。
 当時は漫画家の地位が著しく低い時代でしたが、お母さんは手塚さんの夢を後押ししてくれたのです。
 手塚さんは後年言っています。
「母はいいことを言ってくれたと思います。母のこのひと言で決心がつき、本当に充実した人生を送ることができました」
 親の言葉は子どもの才能を育み、時に情熱をさらに燃え上がらせるきっかけとなるのです。こういう親の言葉の大切さは、偉人の家庭ばかりでなく、一般の家庭でも同じです。

植草学園大学発達教育学部名誉教授の野口芳宏先生がある講演で小学生の作文を読まれました。

ぼくはお母さんに「子どもの頃、何になりたかった?」と聞きました。するとお母さんは「いろんなものになりたかったよ。レストランに行くと“ウェイトレスさんになりたいな”と思ったし、クリーニング屋さんに行くと“クリーニング屋さんって素敵だな”と思ったし、バスに乗って旅行に行くと“バスガイドさんになりたいな”と思ったわよ」と言いました。「ああ、そう。じゃあ、お母さんの夢は叶わなかったんだね」とぼくは言いました。するとお母さんは「そんなことないわよ。全部、叶ったわよ」と言いました。ぼくは驚いて「どうして?」と聞き返しました。お母さんは「だって、お父さんのワイシャツにアイロンをかけている時はクリーニング屋さんになった気分だし、ドライブの時に隣で地図を広げているとバスガイドさんになった気分よ。あなた達の食器をテーブルに並べる時はウェイトレスさんになった気分よ」と言いました。ぼくは“大人って偉いなぁ”と思いました。

野口先生は言われます。
「『お母さんの夢は叶わなかったんだね』と言われた時に『そうなの』と言う答え方もできたと思います。しかし、このお母さんは『夢が全部叶った』と言うのです。このお母さんの物の見方、考え方がすばらしい。人が幸福を感じられるかどうかはその人の人生観によります。こういう人生観を持つ親に育てられる子どもは幸せだと思います。子どもが親や先生に問いかけた時、子どもの心は〝どんな言葉が返ってくるのだろう〟と全開になっています。その全開になった心にどんな言葉を送るのかがとても重要です。すばらしい言葉が子どもの心を育てていくのです」

 熊本いのちの懇談会顧問の野尻千穂子さんという方がいます。野尻さんは12歳の頃、圧迫性脊髄炎という病気になり、それ以来胸から下が動かなくなり、ずっと車椅子の生活をしておられます。20歳の時にお見合いをされました。その相手の男性は両足の股関節がなく、歩くのが不自由な方でした。二人は、結婚することになりました。そして野尻さんは妊娠されました。周りの誰もが産むことに反対しました。ご主人だけはとても喜んで「産んで欲しい」と言いました。野尻さんはお腹の赤ちゃんに「お父さんが産んで欲しいと言っているから、二人で頑張ろうね」と語りかけたそうです。そして奇跡といっても良いと思います。十カ月後に無事に自然分娩で出産されました。両親は赤ちゃんに「さおり」という名前をつけました。
 さおりちゃんが11歳になった誕生日の日、お母さんに質問をしました。
「お母さん、私が生まれた時、うれしかった?」
 それに対して野尻さんは「うれしかったよ。とってもとってもうれしかったよ」と答えました。それを聞いてさおりちゃんは、「ああ、この世に生まれてきてよかった」と言ったそうです。
 その後、野尻さんは「さおりに捧げる詩」という一文を作り、さおりちゃんに贈りました。
「さおりちゃん、あなたが私のお腹にやってきたとき、それは戸惑いからの出発でした。誰もが私の体を心配し、宿ったばかりの小さな命は嵐にもまれて揺れる小舟のようでした。愛すればこそ、産むのを止める人の心を知りながら、それでも私は『新しい命を世の中に出してやりたい』と泣きました。あなたのパパが『産んで欲しい』と言ってくれた時、あの喜びの心を表すほどの言葉を私は知りません。たくさんの不安の中で迎えたあなたとの出会いの朝、それは思いがけず、お腹を切ることなく迎えられ、あの愛おしい産声は今でも忘れません。初めてあなたを見た時、神さまの微笑みを感じました。どんなに辛くても産む道を選んだあの日から、数えきれないほどの幸せを持ってあなたは私達のもとに来てくれたんです。そんなあなたに私はいつも感謝しています。あれから11年、今年の誕生日に『ああ、この世に生まれてきてよかった』と微笑むあなたと出会えた日、世界中で一番幸せな父と母になれました」
 野尻さんは言われます。
「世の中のお父さんお母さん、ご自分のお子さんと初めて対面した時、〝もう他に何もいらない〟というくらい親になれて幸せでしたよね。ぜひ、その時の気持ちを時々思い出しながら、子育てしていただきたいと思います。子どもには個性がありますから、親の思い通りにならないことが多いと思います。でも親は〝こんな人間になって欲しい〟という願いを話し、子どもを抱きしめながら『あなたの親になれてよかった』と感謝の気持ちを話してあげて欲しいと思います」

野口先生の講演にお話を戻します。子どもが親や先生の言葉によって逆にどんなに辛い思いをすることがあるか、野口先生がご自身の体験を語っておられます。野口先生は子どもの頃から歌が大好きだったそうです。しかし、あまり上手な方ではなかったそうです。中学2年生の時に通知表を見たら、音楽が2でした。その2という数字にショックを受け、音楽の先生のところに通知表を持っていって、「これは何かの間違いではないですか?」と尋ねると、「そうだよ。本当は1にしたかったんだけどね。テストがまあまあできていたから2にしたんだよ。何しろ君の歌はひどいからね」と言われたそうです。このひと言で野口先生は〝人前では一生涯歌わないぞ〟と思ったそうです。それ以来、本当に人前では歌っていないそうです。
 野口先生は言われます。
「もしあの時に『2をつけたけど、本当は3にしたかったんだ。音痴でも練習すれば上手になるよ。毎日大きな声で歌っていればきっと次は3がもらえるよ』とでも言われていれば、ちょっとは救われていたかもしれません。下手でしたが私は本当に無類の歌好きで、小さい時から年中歌を楽しく口ずさんでいたんです。でもあの一件から一切口ずさまなくなりました。言葉は心に大きな影響を与えます。人間が生きていく上で支えになったり、励みになったり、またその逆になったりするのです」

野口先生の講演からイタリアのオペラ歌手、エンリコ・カルーソーの話を思い出しました。20世紀の初めに大活躍をしたテノール歌手です。一時期、三大テノールが世界中で大人気でした。ドミンゴ、カレーラス、パヴァロッティです。カルーソーは、その三人を合わせた以上に人気のあったテノール歌手です。その美声は神の賜物と言われましたが、48歳の若さで病気で亡くなりました。カルーソーの病気を知った世界中のオペラファンが、彼の病気が快復するように何万回とミサを行ったといいます。
 実はカルーソーは、元々声があまり良くなかったそうです。でも歌うことは大好きでした。子どもの頃のある日、音楽の先生が「君の歌はダメだね。高音が出ないし、声自体が良くない」と散々なことを言いました。実際、それから繰り返し練習するのですが高い声がなかなか出ませんでした。高い声を出すと声が割れてしまうのです。それがどうして神の賜物と言われるほどのテノール歌手になったのか、理由があります。
 カルーソーの家は非常に貧乏な農家で、お母さんは21人の子どもを産み、その内の18人が幼くして亡くなってしまいました。残った3人の内の一人がカルーソーでした。お母さんは特にカルーソーを可愛がり、〝この子には天賦の才能がある〟と信じていました。人生で唯一の楽しみはカルーソーの歌を聴くことでした。
 カルーソーが学校の先生に散々言われた時、家に帰ってお母さんに泣いて「こんなことを言われた」と言いました。するとお母さんは「先生が何と言おうと、あなたの声は私には天使の声に聞こえるよ」と言ったそうです。お母さんはカルーソーが15歳の時に亡くなりました。カルーソーはお母さんについて、「母は本当に僕のことを愛してくれて、僕を歌手にしようとして、靴も買わずに裸足で過ごしたんだ。僕のために生きてくれたんだよ」と涙を流しながら語っています。
 お母さんが亡くなってから、お母さんの写真を肌身離さず持って、昼間は工場で働いて、夜は歌の勉強をしました。必ずお母さんの写真に向かって、毎日歌を歌ったそうです。お母さんの言葉と不断の努力の成果でしょう。いつしか、カルーソーの割れた声が神の賜物と言われるほどの美声に変わっていたのです。そして世界一のテノール歌手になったのです。
 こんなエピソードがあります。カルーソーは駆け出しの頃とてもあがり症で、なかなか実力が発揮できませんでした。ある時、オペラの主役が急病で出演できなくなりました。カルーソーに代役を頼みに支配人がやってきました。その時にカルーソーは〝もう自分の出番はない〟と思い、お酒を飲んで酔っ払っていました。支配人に「酔っていてもいいからとにかく出てくれ。お客さんが待っているから」と言われ、急遽出演しました。
 その後、主役が病気から回復して舞台に出ると、「駄目だ。あの酔っ払いを出せ」と観客が言ったそうです。そこで支配人に「とにかくお客さんがお前がいいというから、お前がやれ」と言われ、それからカルーソーは自信をつけて主役が張れるようになったというのです。
 一種の験担ぎだと思いますが、世界的なテノール歌手になってからも、必ず舞台の前にはウイスキーソーダを一杯飲んでから出ていたということです。
 お母さんの思いと言葉によってカルーソーは世界一のテノール歌手になったのです。
 言葉は大事です。特に親から子どもへの言葉は大事です。