質直意柔軟

掲載日:2021年12月1日(水)

私が理事長を務めております社会福祉法人昭徳会が百周年を迎えた時、マラソンランナーの高橋尚子選手を指導された小出義雄監督に記念講演をお願いしました。

 一昨年お亡くなりになった小出監督は、晩年に「本当に楽しいかけっこ人生だった。一つだけ思い残すことがあるとすれば、世界選手権で銀メダルを取れなかったことだ」とユーモアを交えて語っておられたそうです。オリンピックでは高橋選手が金メダル、有森裕子選手が銀メダルと銅メダルを獲得しました。世界選手権では鈴木博美選手が金メダル、千葉真子選手が銅メダルを獲得しています。

 小出監督は、「選手を育てる中で、勧誘した子は強くならない。一銭もかけなかった子が強くなっている。志の差だと思う」と言っておられました。有森選手も高橋選手も勧誘した選手ではなかったそうです。それどころか二人ともチームに入れることをためらったそうです。有森選手は小さい頃に股関節脱臼を繰り返し、さらに小学5年生の時には交通事故に遭っていました。他の選手と一緒に走らせてみると、案の定、最後尾をトコトコ着いていくのが精一杯でした。そんなある日、「監督、オリンピックに連れて行ってください」「オリンピックって、お前、観戦にでも行くのか」「違います。私はオリンピックで走るためにこのチームに入りました。そのためだったらどんな練習にも耐えます。他の人が一時間練習するなら、私は二時間頑張ります」という会話があり、この後、有森選手は並外れた精神力で血のにじむような努力を続けたそうです。

 高橋選手も実績はなく、マラソン選手としては年を取っていました。ためらう小出監督に高橋選手は「お願いします。私を強くしてください。お給料は要りません。ご飯を食べさせていただければそれだけで結構です」と言ったのです。その姿があまりにも健気で、情にほだされた小出監督は「よしわかった。お前を世界一にしてやる」と言ったそうです。
 高橋選手がオリンピックで金メダルを獲得できたのは、「彼女が特別に素直だったから」と小出監督は言われます。小出監督によると、世界選手権で金メダルを獲得した鈴木博美選手は、高橋選手よりももっと才能があったのですが、素直ではなかったそうです。

小出監督が「お前は世界一になれる」と高橋選手に言うと、「ありがとうございます。監督、死ぬ気で頑張ります」と返事をしました。しかし鈴木選手に「お前は世界一になれる」と言ったところ、「監督、Qちゃん(高橋選手)にも同じことを言っているそうじゃないですか」と激怒したそうです。そこで小出監督は「Qちゃんはみんなと競り合って世界一になるが、お前は違う。ダントツで勝つよ」とおだてました。ところが、鈴木選手は「私は1万メートルでいいです。マラソンのように長い距離はいやです」と、なかなかマラソンを始めませんでした。小出監督は、鈴木選手が有森選手のオリンピックでの活躍に刺激を受けて、「マラソンに転向する」と言い出すまで10年待ちました。

 小出監督は言います。

「もし最初に勧めた時に鈴木が素直に『はい』と言っていれば、たぶんオリンピックで金メダルを2つ取っていたはずです。シドニーの金メダルもQちゃんではなく鈴木だったと思います。彼女にはそれほどの才能があったのです」

 高橋選手は、明るく素直で、嫉妬しない選手だったそうです。有森選手が銀メダル、銅メダルを獲った時に、中には素直に喜べない選手もいました。しかし、高橋選手は「有森さん、良かったですね」と素直に喜びました。また鈴木博美選手が金メダルを獲った時も、「鈴木さん、良かったですね。私も頑張ります」と、人の喜びを自分の喜びとし、それを糧とする選手でした。「あの素直さがQちゃんを金メダルに導いたんだ」と小出監督は言います。高橋選手は、金メダルだけではなく、国民栄誉賞を受賞しています。「Qちゃんはその明るさと素直さで幸運をつかみ取ることができた。人間は素直でなければならないと思う」と小出監督は述懐しています。

「素直」という言葉で思い出すのが松下幸之助さんです。松下さんはいつも「素直が大事」と言われていたそうです。松下さんの著書の中で最も売れた『道をひらく』という本があります。日本の歴代ベストセラー2位です。(ちなみに1位は黒柳徹子さんの『窓際のトットちゃん』、3位はJ・K・ローリングの『ハリーポッターと賢者の石』、4位が乙武洋匡さんの『五体不満足』、5位が養老孟司さんの『バカの壁』です)

『道をひらく』の冒頭には次のようにあります。

「素直な心、その中にこそ真実をつかむ偉大な力がある」
 また「素直に生きる」と題して次のように松下さんは語られています。
「逆境、それはその人に与えられた尊い試練であり、この境涯に鍛えられてきた人は誠に強靭である。古来、偉大なる人は逆境にもまれながらも、不屈の精神で生き抜いた経験を数多く持っている。誠に逆境は尊い。だが、これを尊ぶあまりに、これにとらわれ、〝逆境でなければ人間が完成しない〟と思い込むことは、一種の偏見ではなかろうか。逆境は尊い。しかしまた順境も尊い。要は逆境であれ、順境であれ、その与えられた境涯に素直に生きることである。謙虚の心を忘れぬことである。素直さを失ったとき、逆境は卑屈を生み、順境は自惚を生む。逆境、順境、そのいずれをも問わぬ。それはその時にその人に与えられた一つの運命である。ただその境涯に素直に生きるがよい。素直さは人を強く正しく聡明にする。逆境に素直に生き抜いてきた人、順境に素直に伸びてきた人、その道程は異なっても、同じ強さと正しさと聡明さを持つ。お互いにとらわれることなく、甘えることなく、素直にその境涯に生きていきたいものである」

鵤工舎の創設者で宮大工棟梁の小川三夫さんは日本の宮大工の第一人者です。小川さんは高校の修学旅行で法隆寺に行きました。当時の小川さんは無気力な生徒だったそうですが、法隆寺の五重塔を見て、衝撃を受け〝こういうものを作りたい〟と突然電流が走ったように思ったといいます。
 法隆寺はその時、改修工事中でした。その棟梁が「法隆寺の鬼」「最後の宮大工」と言われた西岡常一さんでした。小川さんはすぐに西岡棟梁に弟子入りを願い出たのですが、西岡棟梁は「仕事がないから弟子は取らない」と断りました。
 それから小川さんは何度も西岡棟梁に弟子入りを願い出ました。そして4年後、ようやく弟子入りが許され、西岡棟梁のただ一人の内弟子となりました。

 小川さんは雑誌のインタビューで、若い人に伝える技術に関して問われ、次のように言っています。

「技術なんてひとっつも教えない。西岡棟梁だって俺にひとっつも教えてくれなかったですよ。ただ、一緒に生活してたから、いろんなことを学べた。
 うちだって一緒に生活をしていて、みんなで学んでるわけですよ。手取り足取り教えたら、それ以上のものはできません。でも、一所懸命自分で考えてものにしたら、技術にとらわれずにもっと大きな仕事ができるようになるんです。東大寺の大仏殿なんて、つくれるかどうか誰にもわからなかったでしょう。でも、つくりたいという一心で実現させた。それが物づくりの精神というものです。その精神を教えなくては駄目なんです。技術なんて教えなくても、一緒にやっていれば自然に覚えるものです」
 小川さんは西岡棟梁のところに弟子入りをして住み込みとなりました。最初に西岡棟梁が削ったカンナの削り屑を一枚もらったそうです。そのカンナ屑を窓に貼って、くる日もくる日も同じカンナ屑ができるように、カンナを研いでは削り、研いでは削りを繰り返し続けたそうです。
 ある日の深夜、「思うように研げない」という小川さんに西岡棟梁は「アホ、明日にせい。おまえみたいな屁みたいな研ぎ方してたら、一年研いでもあかんわ」と言いましたが、内心〝こいつはいける〟と思ったそうです。事実、小川さんは三年はかかるところを一年で習得してしまったのです。

小川さんは言います。

「素直に見て、真似をするだけなんだが、素直な気持ちですべてにふれていかないと、真似なんかできないんですよ。批判の目があったら学べません。素直じゃないと本当の技術が入っていかないんですよ。ちょっと知識があったとか、中途半端な勉強をしてきてると素直に聞けないから、往々にして間違いが起こるのです」

 小川さんは最初に西岡棟梁から言われました。

「これから一年間はテレビ、ラジオ、新聞を一切見てはいけない。物作りだけをしなさい」
「勉強をするために古建築の本は読んでもいいですか。寺巡りをするのはどうですか」と質問をすると、
「必要ない。知識で物を見たら、見えるものも見えなくなる。心を素にして感じ取るんだ」という答えでした。

西岡棟梁はまた「法隆寺が教科書だ」とも言ったそうです。
 小川さんの解説です。
「太い柱、材を使って作り上げた法隆寺には、すべての建築物の基本である構造の美があります。初めてこうした大型の建物に挑んだ飛鳥の工人達の魂がこもっています。長いこと寺社建築に関わってきましたが、思うことは、仕事は技術じゃない、魂ということです。それを思い起こさせてくれるのが法隆寺です。日本の寺社建築は、私はここから始まったと思っています」

御開山上人は心の広い素直な方だったと聞いております。
 御開山上人は23歳の時に杉山先生の門に入られました。すべてを杉山先生の言われる通りにされました。最初は杉山先生から「東京に行きなさい」と言われ、東京支部で半年くらい毎日、法華経と日蓮聖人の御遺文を読み続けられました。東京から帰ってくると、今度は杉山先生に法華経を勉強する目的を問われ、「仏になって、家族や縁のある人々をみんな極楽に連れて行きたい」と答えると、「それではハンセン病の人のお世話をするように」と命じられました。そして福岡・生の松原のハンセン病療病院の再建に行かされたのです。そこでほぼすべての財産を失われました。それまでパン工場を経営して裕福な生活をしておられたのですが、その時の財産を生の松原で使い果たされたのです。
 名古屋に帰ってきても、杉山先生からは一言のねぎらいの言葉もなかったそうです。すぐに「不良少年の教育をせよ」との命令で、知多半島の臥竜山に行かれました。
 それが終わると今度は「親のない子を育てるように」と言われました。当時、親のない子の中には、被虐待児が多かったようです。歯を半分くらい、一本ずつ折られた子どもとか、体中にあざのある子どもなど、かわいそうな子ばかりだったそうです。戦後は戦争孤児を含めて多い時には400人近くを育てられました。
 晩年、御開山上人は「杉山先生の言われる通りにやってきて本当にありがたかった。法華経の実行と仏になることの意味がわかりました」と言われています。信仰において素直ということはとても大事なことだと思います。

法華経・如来寿量品の自我偈の中に「質直意柔軟」という言葉があります。質直の「直」は〝素直〟、「柔軟」は〝こころが柔らかい〟ということです。

「衆生既に信伏し 質直にして意柔軟に 一心に仏を見たてまつらんと欲して 自ら身命を惜しまず 時に我及び衆僧 倶に霊鷲山に出ず 我時に衆生に語る 常に此にあって滅せず 方便力を以っての故に 滅不滅ありと現ず 余国に衆生の 恭敬し信楽する者あれば 我復彼の中において 為に無上の法を説く」

心が素直で柔軟であれば、仏さまにお会いできるのです。仏さまが無上の法を説いてくださるのです。何事においても素直なことは大事ですが、特に信仰においては、素直に理屈抜きで信行をすることが何より大事です。〝理屈抜きで功徳を積みたい〟という心が尊いのです。