言葉の力

掲載日:2020年12月1日(火)

NPO法人〝自殺防止ネットワーク風〟代表の曹洞宗長寿院・篠原鋭一住職は、悩める人達のために昼夜を問わず電話相談に応じられていますが、新型コロナウイルスが蔓延してから電話がひっきりなしにかかってくるようになったそうです。そんな中、東京在住の38歳の男性が弱々しい声で電話してきました。

「妻が3歳になる男の子を連れて実家に帰りましたが、昨日、離婚届が送られてきたんです。私の勤務している会社は東京ですから、マンションを買って家庭を作りました。ところがコロナ騒ぎが起こると妻が訴えました。『田舎に引っ越そうよ。この子がコロナにかかったらどうするの。あなたが嫌なら、私はこの子と二人で実家に帰るわ。あなたも来る?残るなら離婚して』
もちろん反対しました。だって私の勤め先は東京ですから離れることはできません。〝まあ一時的なものだろう〟と思っていたのですが、送られてきた離婚届を見てびっくりしました。すぐに電話をすると彼女のお母さんが出て『あんた、娘だけじゃなく、可愛い孫まで殺すつもり?離婚届に早く判を押して送り返しなさい』と叫ぶように言われました。私は一体どうしたら良いのでしょうか」

篠原住職のところには、このようなコロナ離婚で悩む人やコロナで失業した人などから相談の電話がかかってきます。ある晩のことです。ある男性が嗚咽しながら電話をかけてきました。

「今、海に向かっているんだ。飛び込むしかねえよ。女房は先に首くくっちまった。寿司屋をやっててよう。やっと十年。〝何とかやっていける〟と喜んだとたんコロナだ。店を放り投げてきたんだ。だってよう、大借金があるんだよ。今頃、借金取りが来てあわててるだろう。仕方ねえよ。もう帰れねえ。住職のことをテレビで見たんだ。誰かに話して死にたかったんだ。住職さん、聞いてくれてありがとう。じゃあ行くから」

篠原住職は「ちょっと待って。どこにいるの。私の所まで来ないか。急ぐことはない」と話しかけました。するとその男性は「気が変わって生きていたら会いに行きますよ。ありがとうね」と言ったそうです。この後、男性から「住職、私生きていますから。お訪ねしてもいいですか」と電話があり、篠原住職は安堵されたそうです。

この篠原住職の仲間には超党派で自死防止活動に取り組んでいる衆議院議員がいます。その方から「東京で商売が立ち行かなくなって、自殺をする人が増えています。住職、どうしたらいいでしょうか」と相談がありました。その時に篠原住職の頭に坂村真民さんの詩が浮かんだそうです。

鳥は飛ばねばならぬ
人は生きねばならぬ
怒とうの海を飛びゆく鳥のように
混沌の世に生きねばならぬ
鳥は本能的に暗黒を突破すれば
光明の島に着くことを知っている
そのように人も
一寸先は闇ではなく
光であることを知らねばならぬ
新しい年を迎えた日の朝
わたしに与えられた命題
鳥は飛ばねばならぬ
人は生きねばならぬ

この詩は真民さんが、ある年の元旦の未明に、宇宙の大心霊から受けた感応だということです。真民さんは「未明というのは、この宇宙が電波のように動いていく時です。暗い世界から明るい世界、陰の世界から陽の世界、あらゆるものが動いていく。そこに、じっと身を置いて、その電波を受けて詩が生まれてくる。だから、宇宙の電波というか霊気というか、そういうものが僕の体の中に入ってそれが言葉となっているように感じるのです。『鳥は飛ばねばならぬ』という詩も、ある年の元旦、未明混沌の霊気の中で打坐し生まれたものです。釈尊が八十年の生涯をもって示されたのは、『人は生きねばならぬ』ということだったと思います」と語っています。

今、コロナ禍で深い闇の中にいるような気がしますが、絶対に闇は明けます。光明がさしてきます。「朝の来ない夜はない」のです。そう信じて生きなければいけません。

坂村真民さんは仏教詩人として有名です。その詩を読んで多くの方が感動し、癒されています。その詩には深い祈りがこもっているからです。〝人に幸せになってもらいたい。よくなってもらいたい〟という菩薩のような祈りです。一番有名な詩は「念ずれば花ひらく」だと思います。

念ずれば花ひらく
苦しいとき
母がいつも口にしていた
このことばを
わたしもいつのころからか
となえるようになった
そうしてそのたび
わたしの花がふしぎと
ひとつひとつ
ひらいていった

この詩碑が今、全国各地にあります。この詩に出会った人が感動して詩碑を建てているのです。最初は京都の帯屋さんです。「念ずれば花ひらく」の言葉に大感動して、真民さんにわざわざ四国まで会いに行かれたそうです。この方は四つ詩碑を建てられました。真民さんは「念ずれば花ひらく」を「八字十音の真言」と言われています。「念ずれば花ひらく」は八字、読めば十音ということです。真言とは〝仏さまの言葉〟ということです。

私の高校の時の同級生に、元気が良すぎて、よく指導を受ける生徒がいました。ある時、生徒指導部の先生に罰として頭を刈られました。普通の生徒ですと恥ずかしくて帽子を目深にかぶって隠そうとしますが、彼は次の日ツルツルの頭で登校しました。「どうしたのか」と尋ねると、「剃って卵の白身で磨いてきた」と言いました。そんな破天荒な彼が就職してから、毎朝始業時間の二時間ぐらい前に出社して、会社の周りを掃除してみんなの机を拭いているというのです。その変わりように、理由を聞いてみると「すばらしい詩に出会ったんだ。『念ずれば花ひらく』だよ」と言うのです。彼は今では会社を二つ経営しています。真民さんの詩の力です。

「念ずれば花ひらく」は真民さんのお母さんの口癖でした。お父さんが42歳の厄年を前に癌で亡くなりました。お母さんはその時38歳、真民さんは8歳でした。その下に4人兄弟がいました。それからどん底の生活が始まりました。おばあさんがやって来て、「上の3人はどこかにやるか、奉公に出すかせよ。下の2人だけを連れて帰ってこい」と強く、お母さんに迫りました。しかし、お母さんはおばあさんの言葉を受け入れませんでした。何の蓄えもない中、お母さんは女手一つで5人の子を育てました。その時にいつも、口にしていたのが「念ずれば花ひらく」です。普通の人であれば、「つらい」とか「苦しい」といった愚痴が出ます。愚痴の代わりに「念ずれば花ひらく」とお母さんは口にしていたのです。

この詩ができたのは、真民さんが46歳の時です。当時真民さんは体がどんどん弱っていきました。肝臓癌、すい臓癌、胃癌、そして目も見えなくなりました。その時は横になることさえできない状態でした。座布団を重ねて、それにもたれて何日も過ごし、水を飲んでも内臓が焼けるようだったそうです。その時、〝このまま死んでは命がけで育ててくれた母に申し訳ない。母の労苦に報いず死んではいけない〟と深く思い、霊感のように浮かんだのが「念ずれば花ひらく」だったのです。それから奇跡のように病気が治っていったのです。目も辞書の字が見えるようになりました。真民さんにとって「念ずれば花ひらく」は祈りの言葉であり、不屈の魂の言葉であり、未来を切り開く言葉だったのです。

「念ずれば花ひらく」の詩が生まれた時、真民さんは次のような日蓮聖人の願文を唱えていたといいます。

「只妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ計りなり。此即ち母の赤子の口に乳を入れんとはげむ慈悲なり」

 真民さんの中に霊感のようにこの日蓮聖人の願文が入ってきて、この思いに相通ずる「念ずれば花ひらく」が八文字の真民さん独自の真言となったと言われています。

〝「念ずれば花ひらく」を世の多くの人々に伝えたい。すべての人を幸せに導いてあげたい〟

真民さんはこれを「衆生無辺誓願度」の誓いだと言われています。

真民さんは8歳でお父さんを亡くしてから、ずっと夜中の2時に起きていました(晩年は0時に起きられました)。起きると誰も汲んでいない井戸の水を汲んでお父さんのお舎利さんに、毎日お水を供えていました。真民さんは真夜中に起きて、祈りを込めます。〝すべての人が幸せになりますように。生きとし生けるものが平和でありますように〟と。そして、夜明け前の混沌とした中で宇宙の霊気や月の光、星の光を受け、天からの言葉を受けとるのです。

真民さんは毎月、祈りを込めた詩集『詩国』を無料で配布されていました。ある時、愛媛県の松山の本屋さんで女性の方が何冊も真民さんの詩集を買っていました。たまたま居合わせた真民さんがその女性に「その詩集はあなたが読まれるのですか」と尋ねると、「違います。私は刑務所に勤めているのですが、そこの受刑者に頼まれて買いにきたのです」と言いました。それを聞いて、〝受刑者というのは今、一つの闇の中にいる。その人達に光をあててあげたい。その心を癒してあげたい〟と思われました。すぐに翌日、刑務所を訪ねて、全国の刑務所に「詩集を送りたい」と伝えると、法務局を通じて、真民さんの詩集が全国の刑務所に送り届けられることになりました。

詩というのは不思議な力があります。言葉が生きているのです。詩は大いなる言霊なのです。

児童文学作家の寮美千子さんという方がいます。寮さんは奈良の少年刑務所で詩の授業をされていました。この方の著書に『空が青いから白を選んだのです』という一冊があります。本の題名は「雲」という題の一行の詩です。これを作ったのは少年受刑者です。「空が青いから私は白という色を選んで雲になって浮かんでいるんです」という一人称の詩です。いつも発表の時、作った本人にその詩を読んでもらうのですが、この詩を作った子はうまく読めませんでした。薬物中毒の後遺症とお父さんに金属バットで頭を殴られたからです。そのことで言語障害になってなかなかうまく喋れないのです。寮さんが「ごめん、よく聞こえなかったから、もう少しゆっくり読んでもらえるかな」と言うと、その子は何度か読み返した後に、はっきりと聞こえるように「空が青いから白を選んだのです」と言いました。それを聞いた瞬間、まわりから大拍手が起こりました。するとその少年が「先生、話したいことがあるんです。話していいですか」と言いました。寮さんが「どうぞ」と言うと、その子が話しました。

「僕のお母さんは今年で七回忌です。お母さんは体が弱かった。けれどお父さんはいつもお母さんを殴っていました。僕はまだ小さかったので、お母さんを守ってあげることができませんでした。お母さんが病院で亡くなる前に僕にこう言いました。
『つらくなったら空を見てね。お母さんはそこにいるからね』
僕はお母さんのことを思い、お母さんの気持ちになってこの詩を書いてみました」

寮さんは胸がいっぱいになりました。いつも「感想は?」とみんなに聞くのですが、この時は聞く前に手がたくさんあがりました。そこには「僕は、〇〇君はこの詩を書いただけで立派に親孝行したと思います」というやさしい意見があり、「〇〇君のお母さんはきっと雲みたいにふわふわで、やわらかくて優しい人なんだと思います」という感想もありました。また勢いよく手をあげたけど、なかなか話せずにいた子が絞り出すように、「僕はお母さんを知りません。でもこの詩を読んで空を見上げたら、お母さんに会えるような気がしてきました」と言ってわぁっと泣き出してしまいました。その泣いた子を「今まで頑張ってきたんだね。一人で頑張ってきたんだね。寂しかったんだね。大変だったんだね」と、みんなが慰めてくれました。その時、寮さんは〝本当に最初に聞いた通りなのかな〟と思いました。最初に聞いたのは子ども達の犯罪歴です。強盗、殺人、婦女暴行、放火、覚せい剤、そういう罪があるということです。〝本当にそんな罪を犯してきたのだろうか〟と寮さんは思ったのです。この「お母さんを知りません」と言った子は、刑務所に入ってから自分の罪の大きさにおののいて、何度も手首を切る自殺未遂をしていました。刑務所では自傷行為をすると慰められるのではなく、罰を与えられます。独房に何日も入れられるのです。それを繰り返していましたが、「空が青いから…」の詩を聞き、「僕はお母さんを知りません」と公に表明してから、ピタッと自傷行為が止まりました。そしてそれまではいつも下を向いて曲がっていた背中が伸びてきました。笑顔まで見せるようになりました。八カ月間授業がありましたが、それが終わって半年程してから、寮さんはまたその子と会いました。

その子は胸を張って寮さんに「先生、僕、作業所で副班長になりました」と言いました。いつもみんなからお荷物扱いされていた少年が副班長になったのです。さらに「最近、僕は休み時間にみんなの人生相談を受けています」と言うのです。寮さんは「このようなことが次から次に起こりました」と言われています。

詩には不思議な力があります。心の扉を開き、運命の扉を開く力です。