人は言葉によって生かされる

掲載日:2020年4月1日(水)

杉山先生はよく「今日一日の堪忍」というお話をされました。『仏説観普賢菩薩行法経』に次のような一節があります。
「この舌の過患無量無辺なり。諸の悪業の刺は舌根より出づ」
 堪忍はまず口・言葉からだと思います。人は口がすぐに動きます。「暑い」「寒い」がその良い例です。杉山先生は、暑さ寒さの挨拶もされなかったということです。
「先生、お暑うございます」
「先生、お寒うございます」
 信者さんからこういう言葉をかけられても、杉山先生はそれに相槌を打つことなく、頭を下げて会釈をされるだけだったということです。では、杉山先生は暑さ寒さをあまり感じないお方であったのかというと、決してそうではありません。
 暑いとか寒いという挨拶は、ややもすると愚痴になり、堪忍破りになりかねないので、杉山先生はそれを警戒されたのだと思います。

江戸時代に熊沢蕃山という陽明学者が、〝徳を養う方法は言葉を慎むことである〟と、その著作『集義和書』の中で述べています。大変参考になる教えです。
「心友問う。入徳の功、いずれの所よりはじまるべきや」
〝徳を養うにはどこから始めたらいいか〟という問いに対して、
「云う。精神の収斂するよりはじむべし」
〝気持ちをひきしめることから始めなさい〟と言っています。そして、
「精神を収斂することは言を慎むよりはじまれり」
〝気持ちをひきしめるのは、まず言葉を慎むことから始まる〟と言っています。
「是、口は好みを成し兵をおこすといえり」
 言葉というものは誰しも相手によって、気分によって変わるものです。これが「口は好みを成す」ということです。言葉は時に人を傷つけ、喧嘩になることもあります。殺し合いになることまであるのです。ですから「兵をおこすといえり」というのです。
「誠に吉凶のかかる所也」
〝人生の吉凶禍福は言葉によるところ大なり〟ということです。
「悪口妄言、世俗の卑辞は、少し心ある人はいわず」
〝人の悪口やいい加減なこと、また世俗の下品でいやらしいことを心ある人は言わないものだ〟。
「言の発し易きことは吾人の通病也」
〝つい口がすべって、言わなくてもいいことを言ってしまうのは、我々の陥りやすい病気だ〟というのです。
「すべて言はいいて人の益とならず、己いうべき義理なくば黙するにしかず」
〝正しいことだからといって、言えばいいかというとそうではない〟ということです。時と場所、相手によって言って良い時と悪い時があるのです。〝口にすべきよほどの理由がなければ、黙っていた方が良い場合が多い〟ということです。
「行の悪しきは悔い改めて、後は善也。言の失は物に及びて害あれば、悔いるといえどもかえらず」
〝行いというのは後で悔い改めればすむが、一旦口から出た言葉というのは相手を傷つけ、いくら悔いて謝ろうが元に戻らない〟というのです。
「故に君子はこれをはじめに慎むなり」
〝故に、徳の高い人はまずはじめに言葉を慎む〟ということです。
 昔、「黙養」という修行があったそうです。〝まず一日黙して一語も発しない。ついで三日黙する。それができたら、一週間、一カ月、三カ月と黙する。これを三年続けて一語も発しなければ、大変な人物と評された〟そうです。三年黙するというのは難行中の難行であろうと思います。しかし、それぐらい昔の人は口を慎むということを重視していたのだと思います。
「悟」という字は一説には「口を慎む」ことが字義だそうです。
 この字は偏ではなく旁に意味があり「吾」の上の「五」は乂で、草を刈る艾と同義の字。「吾」は「口を刈る」、すなわち〝余計なことを言わない〟。悟りとは〝口を慎む〟ということだそうです。

しかし、言葉というものは使いようによっては人を生かし、励ますことができます。「言辞施」と言われているように、徳を積むことができるものです。家族や友人、師の言葉に生かされ、励まされたことは誰しも人生においてあるはずです。

『氷点』という小説が朝日新聞の懸賞小説で入選し、そこから作家デビューをされた三浦綾子さんという方がいます。三浦さんは学校の先生をしておられましたが、終戦後まもなく先生を辞められました。辞められた直後に結核に罹られました。24歳の時です。そして37歳に至るまで十三年間ずっと療養生活を続けられました。最後の四年間は脊椎に結核菌が入って脊椎カリエスになり、ギブスベッドに固定され寝たきりの生活でした。その絶望的な状況を三浦さんは周りの人達の愛の言葉で乗り越えられました。三浦さんが言っておられます。
「24歳で倒れ、37歳で嫁ぐまで、年頃の娘が病人でいたわけですからね、両親の嘆きは想像を絶するものがあります。しかも、ギブスベッドで寝たきりになった数年間は母は便器の世話もしなければならなかった。52歳から65歳までの年月を、寝たきりの私の看病のために外出もままならなかった。そんな私に母は不平一つ言わず、『綾ちゃん、どんなに長いトンネルでも限りがある。必ずトンネルを出る日が来るよ』と励ましてくれました。それから父が言った言葉、これもよく思い出します。『綾子、弱く生んですまなかったな』。謝らなければならないのは幾年月、たくさんのお金を使わせ、心配をかけた私のほうなのに、そう言ってくれた父の言葉にこもる優しさも、私を力づけてくれました」
 三浦さんが最も力づけられたのが後に旦那さんになる光世さんです。結核で寝ている間に出会われたのですが、光世さんは寝たきりの三浦さんにプロポーズをしたのです。
「出会ってから一年後でした。いつ治るかわからないギブスベッドに寝たままの私に、しかも二つ年上の、30を幾つか越した、子どもも産めない私に、彼は結婚を申し込んでくれたのです。それから誠実に彼は私の癒えるのを待っていてくれました。そのお陰で13年の療養を終え、私が37歳、彼が35歳の時に結婚することができたのです。彼には結婚を勧める人がいたり、ラブレターをくれる人がいたんです。それをいつ治るかわからない私を待っていてくれたのです。私は自分のことながら、この結婚に感動します」
 三浦さんは周りの人の愛の言葉によって十三年間の療養生活を乗り越えて、作家生活に入られ、夫・光世さんの支えによって『塩狩峠』『道ありき』『銃口』などの著作を世に出され、今なお多くの人の心に希望と感動を与え続けています。

13世紀の頃、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世という王がいました。この王は、人間はすべて自分本来の言葉を持って生まれてくるはずだと固く信じていました。その考えを実現しようとして、生まれたばかりの赤ちゃんを国中から集めて、養育係に「ミルクは与えよ。しかし、一言も話しかけてはならん。必ず自分の言葉を話し始めるから、それを待て」と厳命しました。養育係は王の命令を守ってミルクは与えましたが、絶対に言葉をかけませんでした。すると、赤ちゃん達は衰弱してみんな死んでしまいました。言葉をかけるか、かけないかということが、実に生死にかかわる大問題だということなのです。
 聖書の有名な言葉を思い出します。「人はパンのみにて生きるにあらず。神の口より出づるすべての言葉によって生きるのである」
 人間は言葉によって生かされているのです。

人材育成家の染谷和巳さんという方がいます。その方の本にあった話です。
「課長の宮崎(仮名)はある日、専務に呼ばれて『地方営業所の立て直しをやってくれ』と指示をされた。その営業所は立て続けに5人も所長が替わって、その内、3人はそのまま会社を去っていった。『あの人あそこに行くの。左遷だね』と社内の誰もが噂をした。宮崎自身もそう思った。帰宅して妻に話すと『どうしてあなたがあんなところへ』と泣き騒ぐかと思ったら、ニコニコ笑って『むずかしい営業所らしいけど、何とかなるわよ、あなたなら。行くのが楽しみ』と言ってくれた。『だってあなた、今の会社が好きなんでしょ。社長さんを尊敬しているんでしょ』と。それを聞いて、のしかかっていた暗雲がいっぺんに吹き飛んだ。宮崎の覚悟は決まった。就任から三年、宮崎はメキメキ業績を伸ばし、売り上げで全営業所のトップとなり、所長会議で表彰された」
〝左遷だ〟と周りも、本人も思い込んでいましたが、奥さんの一言で、人生が好転したのです。

現在、北九州一円でビジネススクールを経営しておられる税理士の池田繁美さんは、税理士になるために一生懸命勉強をしたので、それを活かそうと思って簿記教室を始めました。しかし、人に教えるということはむずかしいものです。教室が始まるとき、奥さんに「生徒さん達と一緒に教室に座ってくれないか。そして、どこか間違えたら、あるいは、おかしいなと思ったら指摘してほしい」と頼みました。奥さんは商業高校の出身で、会社の総務と実務をずっとやってきた人でした。ある意味、池田さんよりも簿記について詳しかったのです。最初は緊張をして、帳簿の左側の借方と右側の貸方を言い間違えるなど基本的なミスを頻繁にしていました。授業が終わって、池田さんが「どうだった?」と奥さんに聞くと、奥さんは「ええ、とてもすばらしかったですよ」と答えました。次の日も次の日も奥さんに聞くと「ええ、とてもすばらしかったですよ」と奥さんの答えはいつも一緒でした。そんなある日、「どうだった」と聞くと「いつもと同じようにとてもすばらしかったですよ」と答えるので、池田さんは「そんなことはないだろう。ほら、あそこのところ、自分でも言い間違えたことに気がついたよ」と言うと、奥さんは「だから直ぐにそのあとで訂正をされ、皆さんも納得されたではありませんか。だからとてもすばらしかったんですよ」と、万事こんな調子で、他の人が聞いたら、〝間違いだらけでよく先生をやっているな〟という感じだったらしいのですが、ほめられることで段々授業がうまくなり、数年経った頃には福岡県下でも有数の簿記教室になり、「あそこに通うと合格できる」という噂が広まるくらいでした。そして、近隣の山口県や大分県からも生徒が来るようになりました。池田さんは「すべて家内のお陰だ。家内の『とてもすばらしかったですよ』という言葉のお陰だ」と言っておられます。
 家族や恋人の言葉によって、また旦那さんは特に奥さんの言葉によって変わるものだと思います。また、先生や、会社の上司の言葉によって人生が変わることもあります。

東北大学のある先生の話です。その先生の教え子は非常に優秀なエンジニアや研究者になったといいます。その先生が亡くなった時、先生の記念碑を建てようということになりました。記念碑に刻む言葉はすぐに全員一致で決まりました。それは「君、それはいい。やってみよう」でした。学生達が「先生、こんなのどうでしょうか」と言うと、どんな提案に対しても必ずその先生は「君、それはいい。やってみよう」と言ったそうです。

京セラ、KDDIを創り、日本航空を倒産から再上場に導いた稲盛和夫さんも、「ある人の言葉によって自分の人生は変わった」と言われています。

 稲盛さんは鹿児島大学を卒業後、京都で絶縁ガイシを作る松風工業という潰れそうな会社に入社しました。大学では有機化学を勉強していました。ガイシは磁器で無機化学ですので、急遽、就職が決まったので卒論のテーマを無機化学に変えて勉強を始めました。卒論が書き上がったところで、たまたま無機化学の第一級の先生が鹿児島大学にやってきたので、その先生に見てもらったそうです。内野正夫という先生です。この方は旧制の帝国大学の応用化学科を出て、戦前、満州で活躍をされた一級の先端技術者でした。この方が稲盛さんの卒論を見て「すばらしい」と言ったそうです。その日に「一緒にコーヒーを飲みに行こう」と誘ってもらい、稲盛さんは初めてコーヒーを飲んで、〝こんなまずいものをよく飲むな〟と思ったそうですが、もう一つ印象に残っているのが「君はきっとすばらしいエンジニアになりますよ」と言われたことです。今でもその言葉が忘れられない程、うれしかったそうです。

それから稲盛さんは松風工業に行きました。潰れそうな会社でしたので、給料がもらえたり、もらえなかったりして、暗澹たる思いでいると、内野先生は東京出張の際に電報をくださり特急つばめが京都駅に停まる少しの時間に、デッキで稲盛さんにアドバイスをされたそうです。その都度「稲盛君頑張れ。絶対、君はどんな会社にいたって頭角を現すことができる。くさらずがんばれ」という励ましの言葉があったそうです。その言葉のお陰か、稲盛さんは松風工業でセラミックスの開発に成功し、松風工業で稲盛さんの部門だけが黒字のドル箱部門になったのです。ところが上司の理不尽な仕打ちによって、稲盛さんは会社を辞めることになりました。そこで思い出したのが、前年にパキスタンからの実習生に言われたことでした。その実習生は、パキスタンで絶縁ガイシを作っている大きな会社の御曹司でした。稲盛さんに「パキスタンに来て工場長になってくれないか。うちの父が松風工業の何倍もの給料を出すと言っている」と言ったのですが、その時は断ったそうです。しかし、会社を辞めるとなった時にその話を思い出し、パキスタンに手紙で「去年の話だが、まだ採用してくれるか」と連絡をとりました。

すると「もちろんだ。ぜひ、採用したい」と返事が来ました。ちょうどその時、内野先生から「今度また、東京出張の折に京都駅に寄るから、稲盛君ちょっと話をしないか」と連絡がありました。そして、会った時に稲盛さんが「パキスタンに行きたい」という話をすると、内野先生は即座に「絶対にパキスタンに行ってはいけません。せっかくここまで培ってきた技術をパキスタンでただ切り売りしていたのでは、数年後日本に帰ってきた時に、エンジニアとしてあなたは使い物にならなくなっているでしょう。あなたがいない間に日本の技術は日進月歩で進んでいくはずです。絶対にパキスタンに行ってはいけません。石にかじりついてでも日本で頑張りなさい」と言われ、稲盛さんはパキスタン行きを断念されたそうです。稲盛さんは言われます。
「今思えば、もしあのままパキスタンに行っていたなら、私はファインセラミックスの世界の入口を垣間見ただけの、中途半端なエンジニアとして終わっていたでしょう」

その後も、稲盛さんと内野先生との師弟関係は続き、内野先生が亡くなる直前、稲盛さんが病院に見舞いに行かれると、内野先生はもう骸骨のように痩せていらしたそうです。しかし、その骸骨のようになった内野先生が破鐘のような大きな声で「おお、稲盛君。大したもんだ。大したもんだ」とほめてくださったそうです。京セラの発展を自分のことのように喜んでおられたのです。
 稲盛さんの言葉です。「いま思い返しても、内野先生との出会いがなければ、また内野先生からいただいたさまざまなアドバイスがなかったならば、私の人生は、また京セラの経営は、全く異なったものになっていたと思います」

かつて大阪に「伝説のドアマン」と呼ばれる人がいました。名田正敏さんという人です。この人は家が貧しくて、小学校を出てすぐに働きに出ました。いくつか仕事を変わった後、縁あって大阪のロイヤルホテルの駐車場配車係の仕事につきました。ロイヤルホテルは超一流ホテルです。名田さんはだんだん心が委縮していって、ある日、部長に辞表を出しに行きました。
 そこで、部長が言いました。
「名田君、人と比べて一喜一憂せず、自分の土俵を作りなさい。『名田正敏、ここにあり』というものを作りなさい」
 名田さんは部長に励まされて、ホテル勤めを続けました。
 ある日の夜のパーティーの終了後のことです。配車係のチーフが会場から出てくる参加者の顔を見るなり、次々にマイクで「○○会社の○○常務様のお車どうぞ」というように呼ぶのです。名田さんは「これだ」と思いました。
 それから、名田さんは関西の有名企業四百社のトップ十人、合計四千人の名前と顔を覚えることを決心しました。完全に覚わった頃、名田さんはマイク係を任されるようになりました。
 また名田さんは、ドアマンとしてホテルの玄関脇に立った時、到着した車に「○○様、ようこそいらっしゃいました」と名前を呼ぶようにしました。
 そして、車から降りて玄関まで歩くわずかの間に会話をするようになりました。これでお客さんの心に名田さんの人柄が刻み込まれていきました。するとその内、「名田さん、今度うちの息子が結婚することになってね。お宅で式をやりたいから会場を予約しておいてくれるかな」などと頼まれるようになりました。多い時で、名田さんを通してなんと四億円もの仕事が入ってきたと言います。そして、名田さんは副支配人にまでなっていくのです。
 名田さんの定年退職の時、大阪の財界人がお別れのパーティーを開いてくれました。そこに集まった財界トップの人数はなんと350人だったそうです。それ以来、名田さんは「伝説のドアマン」と呼ばれるようになったのです。
 最後に名田さんの言葉です。
「あの部長さんの言葉がなかったら、今の自分の人生はなかったでしょう。あの言葉で私はお客さまの名前と顔を覚えるようになり、覚えると不思議なことに、お客さまが私を大切にしてくださるようになったのです」
 名田さんの〝相手の名前を覚え、温かい声掛けをいつも心掛ける〟という行為は、正に言辞施であろうと思います。