日本人にある「至誠」の精神

掲載日:2018年4月1日(日)

世の中には驚くようなことが突然起ります。大企業の倒産もその一つです。最近では創業110年以上の東芝という大企業が、不正会計処理や原発事業の失敗によって巨額の損失を出し、倒産寸前の状況に追い込まれました。また、自動車のエアバックで世界シェア20%を占める、超優良企業だったタカタも、事故によってリコールが1億台以上となり、そのための費用が1兆円を超え、倒産しました。そして中国企業の傘下に入ることとなりました。少し前ですと、液晶テレビで世界を席巻したシャープがいつの間にか立ち行かなくなり台湾の鴻海精密工業に買収されました。

ほとんどの会社がいつまでも続いていくものと思いがちですが、そうではないのです。以前読んだ雑誌にこんな話がありました。ある人が地方都市に旅行をした時、市役所の人に古くからある神社を案内してもらいました。そして「この神社は50年前に修復を行ったのですが、その時地元の企業100社が協賛して寄付をしてくれました。さて、50年経った今、その100社のうち何社が残っていると思いますか」とその人に質問されました。実は残ったのはたった1社だったのです。その1社も業態を変え、名前だけ残して別の会社になっているということでした。

現在ある会社で100年後に残るところは1000社のうち2~3社と言われています。なんと生存率0・2~3%です。会社も人間のように寿命があるのかもしれません。

ただ、会社の寿命は国によって違いがあるようです。日本は人間も長寿の国ですが、会社も長寿です。100年どころか、200年以上続いている会社が日本には3000社以上あります。これは世界一です。

『三代、100年潰れない会社のルール』(後藤俊夫著)という本によると、2009年に世界の200年以上続いている会社を調査したところ、日本が世界全体の43%、ドイツが22%、フランスが5%と続き、アジアでは中国が1%未満でした。韓国では100年続いている会社が2社あるだけで、200年はありません。韓国では「三代続く店はない」と言われているそうです。

日本には創業300年の会社が605社、500年以上続いてきた会社も39社あります。羊羹で有名な虎屋は500年以上続いています。虎屋は、室町時代に後陽成天皇に献上して以来、伝統の味を500年以上守り続けているのです。このお話を法音寺の篤信者である川口屋さんという和菓子屋さんの奥さんにしたところ、「うちも300年以上続いております」と言われました。300年以上となると、『暴れん坊将軍』で有名な徳川吉宗の時代です。あの時代から川口屋さんはおいしい和菓子を作っておられるのです。立派なことです。

世界最古の企業も日本です。金剛組という建設会社です。身延山の五重塔を造った会社です。金剛組ができたのは西暦578年、聖徳太子の時代です。1400年以上前です。聖徳太子は四天王寺を造るために朝鮮半島の百済から3人の工匠を日本に招聘されました。その中の一人が金剛重光でした。その人が初代棟梁ということで、その名前を取って金剛組となったのだそうです。

日本の会社の寿命が長い理由について考えてみました。名古屋地区の北支部に赤塚さんという方がいらっしゃいます。熱心に法座をしておられる篤信者です。その初代の赤塚正一さんのお話です。忘年会の時、私に「正修上人、あなたはこの世に何しに来られた」と質問をされました。いきなり聞かれたものですから私は面食らい、驚いた顔をしていると、赤塚さんが「私はこの質問を杉山先生からされた。その時に『働きに来ました』と答えたら、『そうか。よし!』と杉山先生が言われた」と言われるのです。〝働くことは美徳である。菩薩行である〟という考え方が日本人の心にはあります。これがまず会社が長く続く理由だと思います。他方、働くことはただお金を稼ぐことで、会社は金儲けをすればそれでいいというのでは会社は長く続かないのではないでしょうか。日本の長寿会社は、日本人の〝働くことは美徳である〟という精神から続いているのだと思います。

近江商人」の心得で「三方良し」という言葉があります。「売り手良し、買い手良し、世間良し」です。この「世間良し」とは〝世間のためになる。お国のためになる〟ということです。私はこの心得は、「売り手良し」を脇に置いて、「買い手良し、世間良し」に重きを置いていると思います。だから昔から日本人の商売はうまくいき、日本の会社は長く続いているのではないでしょうか。「買い手良し、世間良し」つまり人のことを先に考えるから、その結果の功徳として「売り手良し」もあると思うのです。

日本の資本主義の元を築き上げた渋沢栄一という人は、会社を500創設しました。その会社の中には『みずほ銀行』『日本郵船』『サッポロビール』『王子製紙』『東洋紡』など名だたる一流企業があります。渋沢栄一はこのような会社を創りながら、さらにすごいのが、それらを自分の物にしていないのです。加えて公共・社会事業も600程興しています。その中で生涯にわたり続けたのが養護施設の運営とハンセン病救済です。本当に神さまのような人です。

渋沢栄一は「論語と算盤」という言葉をよく使いました。
道徳と経済を一致させなければいけない。経済活動の根底には公益を重んじる道徳がなければいけない」
要するに「経済活動はまず〝買い手良し、世間良し、国良し〟でなければいけない」と言っているのです。

世界遺産になった富岡製糸場も渋沢栄一が創りました。「これから日本も国益となるような産業を興さないといけない。それは生糸だろう」と言って、フランス人技師を招いて、近代的製糸工場を創ったのです。以来、フランスのリヨンやイタリアのミラノなどのファッションの中心地から生糸の受注が殺到したのです。そして生糸は日本の重要な輸出商品となりました。

産業を興すためにはお金が要ります。そこで「お金を貸す銀行が必要だろう」ということで、渋沢栄一は日本で初めての銀行を創りました。第一国立銀行です。名称はアメリカのナショナルバンクに倣ったもので、バンクを銀行と訳し、ナショナルを国立としたのですが、純然たる民間企業です。これは日本最初の近代的金融機関でした。後に第一銀行から、第一勧業銀行を経て、現在はみずほ銀行となっています。

また、当時の輸送手段は船、つまり海運しかありませんでした。それを三菱商会の岩崎彌太郎が独占していました。西南戦争で政府紙幣が濫発されて、その価値が下落すると、三菱商会は政府紙幣による支払いを認めず、銀貨に限りました。これによって運賃は実質7割も上がりました。

九州のお金持ちがたまりかねて、汽船一隻を買って海運業を始めましたが、岩崎彌太郎は自分の汽船一隻をその後につけさせ、行く先々で大幅な値引きで積み荷を横取りし、ついには廃業に追い込むという始末でした。

渋沢栄一は正義感から、三井や大倉などの豪商に呼び掛けて、明治13年に風帆船会社を設立しました。その会社も岩崎彌太郎から数々の妨害を受けましたが、計画通り事業を進め、第一船の新倉丸が函館に到着すると、商人達は歓呼して迎え、鮭鱒、こんぶなどの荷を満載しても、なお積みきれない有様でした。この後、風帆船会社は共同運輸会社となり、帆船の数を増やして、岩崎彌太郎に挑んでいきました。そして、両社が競って採算を度外視した商売になり、両社とも経営に行き詰まり、ついに政府が調停に乗り出して、明治18年、両社は合併し、日本郵船が誕生しました。競争としては引き分けに終わりましたが、岩崎彌太郎の不当な独占を打ち破ろうという渋沢栄一の目的は達せられたのです。日本郵船は、その後、日本を代表する世界有数の国際的海運会社に成長し、わが国を戦前において世界第3位の海運国に発展させる原動力となったのです。

私利私欲が幅を利かせていては、健全な経済は発展しない。経済活動の根底には、公益を重んずる道徳がなければならない。それが「論語と算盤」を説いた渋沢栄一の信念でした。弱肉強食の資本主義とは一味違う、渋沢流の日本独自の資本主義思想です。

晩年、渋沢栄一は「わたしが、もし一身一家の富むことばかり考えたら、三井や岩崎にも負けなかったろうよ。これは負け惜しみではないぞ」と息子に語ったそうです。

自分の一身一家の代わりに渋沢栄一は企業を500、公共・社会事業を600設立して国家と国民を富ませました。渋沢栄一が昭和6年に91歳で亡くなった時、東京の青山斎場には約4万人もの会葬者がつめかけました。告別式を1時間繰り上げて始めたのですが、お焼香の列をさばききれず、式が終わるまでに延々3時間半もかかったそうです。当時の日本国民がいかに渋沢栄一に感謝していたかがわかります。昨今の大企業の倒産や不祥事を見聞するにつけ、渋沢栄一の「論語と算盤」の精神が企業長寿国、日本においても希薄になりつつあるのを感じます。現代の我々は、今一度原点に帰って、商業菩薩道とも呼ぶべき渋沢栄一の生き方を見習うべきかと思います。