因は時を越えて果を現します

掲載日:2017年2月1日(水)

“情けは人のためならず、めぐりめぐって己がため”という諺がありますが、情けは人と人だけではなく、国と国との間でもあります。

今回は日本と台湾の友好についてお話をします。

昨年の春頃、テレビを観ていましたら、変わりつつある近年の台湾が特集されていました。その中で、台湾でも“くまモン”が人気で、くまモンカフェという店が出てきました。そこで、くまモングッズのオークションをしていました。驚いたのは、かなりの高額でぬいぐるみ等が落札されていたことです。すぐにわかったのですが、そこで「熊本地震」への義援金を集めていたのです。あっという間に台湾全体で一億円集まったそうです。

台湾の人々は東日本大震災の時にも世界一の支援をしてくださいました。金額としては、日本赤十字が把握しているだけで日本円にして200億円を越えます。これは台湾の貨幣価値からすると、1000億円以上に相当します。支援物資も400トン以上で、世界中から集まった支援の三分の一を占めますが、実は日本赤十字社を介さずに送られた支援がその何倍もあったそうです。

その年の暮れに、台湾の新聞社が「今年一年、あなたにとって最高の幸せは何でしたか?」というアンケートをとりました。その回答で一番多かったのが「日本への義援金が世界一になったこと」でした。

どうして台湾の人々がこんなにも日本のことを思ってくださるのでしょうか。それは1895年から1945年までの50年間、日本が台湾を統治していたことに起因しています。

日本精神

李久惟という台湾の方がいます。李さんは東京外国語大学を卒業し、15言語以上話すマルチリンガルです。現在、台湾新幹線プロジェクトに従事されている李さんは、次のように言われています。

台湾人の心の深い所には、他の国とは異なる特別な思いが日本に対してあります。“いつか日本に恩返しをしたい”という思いは、日本統治時代を生きた祖父たちからずっと引き継がれてきたものです。

台湾は歴史的に、互いの仲があまり良くない集落単位の村社会の時代が長く続き、なかなか大きなまとまりを持つことができない国でした。部族によって言葉や考え方が違い、狩猟の場や水や食べ物をめぐって戦いも頻繁にある、そんな極度な人間不信の歴史が数百年も続いていたのです。

そのうち台湾は清国による統治を受けるようになりました。清国は村同士の対立をそのままにするだけでなく、統治しやすいようにするため、さらに争いが激化するように仕向けました。その結果、水問題が深刻になり、9割の部族が飢餓にあえぎ、加えて水害も起き、重税がかけられ、人々の生活はさらに厳しくなっていきました。

そんな中、起ったのがアヘンの流行です。日清戦争の後、日本が台湾を接収した時、実に16万人以上、軽度の人も合わせると20万人以上の常習者がいたと言われます。人口のほぼ1割です。生活に苦しみあえぐ人に清国は、“良く効く妙薬”としてアヘンをつかませていったのです。人々はただでさえ食べるだけで精一杯なのに、アヘンを買うためにさらに貧困にあえぐようになっていきました。そこにやって来たのが日本人です。

当時の台湾は疫病が流行り、アジアの最貧地域でしたから、誰も進んで来たくはなかったはずです。しかしそんな中でも日本の先人たちは台湾にやってきて、多くの“奇跡”を起こしました。

日本の台湾統治も、はじめからうまくいった訳ではありません。1年半の間に三度も総督が替わり、行政機構もたびたび変更されました。台湾統治が軌道に乗ったのは、明治31年、第4代台湾総督に児玉源太郎が就任し、総督府民生長官に後藤新平(※)を抜擢してからです。

時に後藤新平40歳。それから満州鉄道総裁として転出する明治39年までのわずか8年間で後藤長官はアヘン問題を解決し、原住民ゲリラを帰順させ、港湾・鉄道・道路・上下水道を建設、さらに製糖産業を興すなど、矢継ぎ早に近代化政策を実行しました。この時築かれたインフラが、現在も台湾経済を支えていると言われています。

医師でもあった後藤長官は医療・衛生面に力を入れ、アヘン撲滅に動きます。当時の世論は次のようなものでした。

「アヘンが我が国に伝播したらなんとする。吸飲する者は厳罰に処すべし。輸入や販売を行う者についても同様だ。従わない者は台湾から追い出せ。中国大陸に強制送還せよ」

このような厳禁説に対して後藤長官は「これでは各地に反乱が起き、何千人の兵士や警官が犠牲になるかわからない」と主張し、漸禁説をとりました。まず、“中毒にかかっている者だけに免許を与え、特許店舗でのみ吸飲を認める。新たな吸飲者は絶対に認めない。アヘンは政府の専売とし、その収入を台湾における各種衛生事業施設の資金に充当する”という破天荒な政策でしたが、後藤長官の読み通り大きな混乱もなく、中毒患者は次第に減っていき、日本統治終了時には0になっていました。

次に後藤長官は日本で医師を公募し、各地に医院や診療所を作り、そこに医師たちを配置し、各地域の衛生思想の向上・改善・防疫・治療に当たらせました。その医師たちの中には自ら伝染病に罹り亡くなった人も大勢いましたが、後藤長官も医師たちも怯むことなく改革を続け、当初20カ所ほどだった医院や診療所が二百数十カ所になり、遂にはマラリアやペストが撲滅されたのです。また後藤長官は台湾人の医師を養成するために「台湾総督府医学校」を創立しました。これが現在の国立台湾大学医学院となっています。後藤長官や医師たちの努力によって、台湾人の平均寿命は50年間で30歳から60歳へと伸びたのです。

後藤新平は気宇壮大な人物であると同時に緻密であり、大変人望のある人物でした。その人望に惹かれて日本から第一等の人物たちが集まって台湾の改革を成し遂げたのです。その代表は農業振興に呼ばれた新渡戸稲造博士だと思います。そして、もう一人だけ紹介したいと思います。それは八田與一という水利技術者です。

大の親日家で台湾の第8代総統であった李登輝さんがおっしゃっています。

「台湾に寄与した日本人を挙げるとすれば、おそらく日本人の多くはご存じないでしょうが、嘉南大圳(用水路)を10年かけて作り上げた八田與一技師が、いの一番に挙げられるべきでしょう。嘉南平野にすばらしいダムと大小さまざまな給水路を作り、15万ヘクタール近くの土地を肥沃にし、100万人の農家の暮らしを豊かにした人です」

当時、香川県ほどの大きさの嘉南平野は作物ができない不毛な土地でした。この土地を豊かにしたらどれだけ多くの台湾人が救われるだろうと考え、八田さんは開発計画書を作り上げました。工事費は今の貨幣価値で4000億円という途方もない金額でした。そこで総督府の後藤長官に相談すると「やってみろ」という返事だったのです。ここに後藤新平という人物の懐の深さ、大きさを感じずにはいられません。

八田さんは、当時の最新技術を勉強するために1年間アメリカに留学し、10年の歳月をかけて当時東洋一の烏山頭ダムを作り上げます。その間、富山県の黒部ダムがそうであったように、大勢の方が亡くなりました。八田さんは工事を中止するべきか苦慮しますが、逆に台湾の人たちに励まされて工事を続行。また、一番危険な場所で先頭に立って働き、亡くなった工夫の遺族の世話までしたのです。

こうした功績を残した八田さんは未だに多くの台湾人に慕われています。5月8日の命日には、老若男女問わず大勢の人が、八田さんの銅像とお墓のある烏山頭ダムを訪れるそうです。

八田さんの出身地である金沢にも近年多くの台湾人が訪れています。今では台湾から石川県の小松空港に直行便が毎日就航するようになっています。台湾の人々にとっては聖地巡礼のような気持ちかもしれません。

台湾総督府は、人々の教育にも力を入れました。部族が異なれば言葉も異なり、会話もできない状態でしたので、日本人教師が各部族の言葉を研究し、日本語を教え、共通の言語としました。その結果、台湾の人々は文字を読めるようになり、世界中の本が読めるようになったのです。“日本語を強制した”と悪く言う人がいますが、それは違うと思います。共通の言語を持つことによって、人々はお互いに話し合うこともできるようになったのですから。

そして最高学府である帝国大学を大阪や名古屋よりも先に作ったのです。当時の日本人がいかに台湾のこと、その未来のことを思っていたかがわかります。

台湾の人々は“自己を顧みずに人に尽くす日本人”に大変な感銘を覚え、現代でも“日本精神(リップンチェンシン)を持っている”というのが人々のほめ言葉として使われているそうです。

恩を忘れない

日本の先人たちによって築かれた台湾との絆は本当にすばらしいものです。その絆をより一層強固なものにするために、私たちもリップンチェンシンを持って台湾の方々と接し、さらに世界の人々を遇することが大事だと思います。

※)後藤新平について
 始祖杉山辰子先生物語『安立行』(下)によると、杉山・村上両先生は後藤新平伯爵と親交が厚かったとあります。後藤伯爵は、かつて村上先生が奉職した愛知病院の院長だったこともあり、お二人を親しく邸宅に招くほどだったと言います。〝国民のリーダーこそ三徳実行を〟という杉山先生の信念に伯爵の心は動かされたのだそうです。(広報委員会)