法華経の実行をして人を助けることが大切です

掲載日:2016年8月6日(土)

御開山上人の事

御開山上人の実践

御開山上人は生涯「如我等無異」(我が如く等しくして異なること無からしめんと欲す)というお釈迦さまのお言葉を、ご自分の人生の指針とされました。

二十代の頃、パン工場を経営し、何不自由のない生活をしておられた御開山上人ですが、“本当の人間の幸せは別のところにあるのではないか”と悩んでおられました。そんな時、叔父にあたる、後の慈学上人が「名古屋にすごい方がいらっしゃるから、一度会ってみないか」と話を持ちかけてこられました。そして、人生の一大転機となる杉山先生との出会いがあったのです。

   本来の使命

杉山先生は、御開山上人をひと目見るなり「あなたは自分の正体がわかっていますか」とおっしゃられ、「あなたは特別な魂を持っている人です。あなたにはあなたにしかできない特別な仕事があります」と言われたそうです。それに対して御開山上人が「私はただ本当の幸せを求めているだけです」と伝えると「あなたが本来の使命を果たすことによって、本当の幸せを手に入れることができるのです。それが法華経の実行です。世の中の苦しんでいる人を助けてあげるのです」とおっしゃられたのです。そこから御開山上人の「如我等無異」のご生涯が始まりました。

   御開山上人の慈悲心

慈学上人によると、御開山上人は杉山先生に出会われる以前から、慈悲心にあふれたお方だったそうです。

大正13年頃、自宅の近くに遮断機のない踏切があり、そこを通る人が大ケガをすることが度々あったそうです。その話を聞いて、御開山上人はパン工場で蓄えたお金を持って駅長さんのところに行き、「これで遮断機をつけてください」と渡されたそうです。上人21歳の頃です。駅長さんは感激し、本社にかけあってくれました。ところが、「踏切を渡る人が注意をすれば遮断機は必要ない」というのが本社からの返答でした。そこで今度は、慈学上人が遮断機の設置を求める嘆願書に署名を集めて再度交渉し、ようやくその踏切に遮断機が設置されました。その後事故は一度も起こらなかったそうです。

慈学上人のお言葉です。

「誰でも事故があると『遮断機を設置せよ、踏切番を置け』等と喧しく言いますが、お金を出される人はなかなかありません。日進上人(御開山上人)は、自然に具わった慈悲心があふれておられました。間もなく法音寺の事業に一身を抛ち、社会福祉の大事業を成し遂げられる資質は、その青年時代からすでに芽吹いておられたのです」

   御開山上人の親孝行

御開山上人が杉山先生に出会われてすぐに教えられたことが「法華経を信仰する者が親の心に従わないようではいけない」ということでした。親の言うことに素直に従うのは大切なことですが、これがなかなかできません。殊に御開山上人のお父さまは非常に厳格で、頑固な方でした。人の話には全く耳を傾けようとしない人でした。

御開山上人は長男でした。昔は長男がすべてを継いで家を守ったものです。家を捨てて杉山先生に弟子入りすることを話せば大反対されることは目に見えていました。ですから相当悩まれたそうですが、御開山上人は杉山先生の言われた通り、何事も親に従って、認めてもらい、許していただこうと決意を固め、実行されました。

それから三年ほど経った時、お父さまが「私は良い息子を持った。こんなに私の言うことを聞いてくれる者はいない。私は幸せ者だ」と言われ、弟子入りの件についても、「お前の好きにして良い。お前のやることに間違いはない」と認めてくれたのです。さらに、最初は御法の話を聞く気の全くなかったお父さまでしたが、杉山先生の話を聞いて喜ばれるまでになりました。そして亡くなられる時には「家も土地も全部布教活動に使って良い」という遺言を遺されました。因みに、その家の跡に建てられたのが今の「開基堂」です。

この体験を御開山上人はご法話の中で「柔伏」と言われています。「柔伏」とは自分の心を柔らかくして相手の心に従っていくと、相手も必ず自分の心に従ってくれるということです。

   福祉と教育

御開山上人は杉山先生の教え通り、親のない子どもを育てることに生涯尽力されました。こんなご法話があります。

「生の松原から名古屋に帰りましたら、これから親のない子どもを育てろということになったわけであります。さまざまな子を育てました。昭和8年には、子どもを虐待してはならないという法律ができたのですが、当時サーカスから来た子どもが13名いました。それから中には、継子いじめで体中に36カ所も傷のある子もいました。歯が半分くらい折られてしまった子や、毎日叩かれて手足が黒ジミになってしまっている子もいました。そういう子どもが本当にたくさん送られてきました。終戦直後には『浮浪児』を120名預かり、現在は350名の子どもたちの面倒をみております。そのようにしてようやく、本当の法華経の心を知ることができました。杉山先生の言われたことに間違いがなかったことがわかり、本当にありがたく思っている次第であります」(昭和35年頃のご法話)

御開山上人はすべての子どもを自分の子どものように、いや、それ以上にかわいがって育てられました。また、いつもいつも子どもたちをほめて育てられました。ほめることは、相手の人格を尊ぶことにつながります。御開山上人は知的障がいのある子どもたちにも、普通の子と全く同じように接しられました。

ある時、知的障がいを持つ子どもたちの施設・八事少年寮で、「須利槃特」の話をされました。

「皆さんは須利槃特よりずっと頭が良い。名前を呼ばれたらすぐに返事ができるでしょう。須利槃特は自分の名前が覚えられないくらい頭が悪かったけれど、お釈迦さまがおっしゃる通りの実行をして、ついに悟りを開きました。いくら頭の鈍い者でも仏さまを信じるという心がしっかりしていれば、はじめはなかなかむずかしいかもしれないけれども、必ず本当の悟りを得ることができるのですよ。皆さんも必ずそうなるのですよ。逆に、とても頭の良かった提婆達多は無間地獄に堕ちました。心が邪だったからです。いくら多くのことを知っているからといって、それが良いわけではありません。多くのことを知らなくても、心の底に良いことを固く信じて、それをやっていこうという強い思いがあればそれで良いのです。法華経の五百弟子受記品に須利槃特は500人の弟子の中で一番最初に仏さまと同じ立派な人になったと書いてあります。皆さんより頭の悪い須利槃特が、一つのことを守って仏となることができたのです。皆さんは間違いなく仏になれます」

当時、知的障がいの子どもたちに職業訓練をするのは極めてむずかしいと考えられていました。しかし御開山上人は、八事少年寮で子どもたちに仕事を教え、日本福祉大学や立花高校(現・付属高校)で使う椅子や机を作らせました。子どもたちはデパートで売り物になるような物を作りました。なぜこのようなことができたかというと、子どもたちに「真・善・美・聖」の心を教えておられたからです。これは「真心を込めて一生懸命やればどんな人も立派な仕事ができる。それによって善根功徳が積まれる。そういう姿が美しい。そういう姿を見て世の人が真似をし、師表とするようになる」ということです。

御開山上人は、どんな障がいを持った子どもでも教育によって人格が向上し、働くことによって人生の喜びを得ることができると考えておられました。

ある時、御開山上人は八事少年寮の子どもたちに“一番うれしかったことは何か”と聞かれました。その答えです。

「デパートで僕たちの作った物が並べられた時。そして、机の売れた時はとてもうれしかったです」

「僕たちの作った机や腰掛けが立花高校の教室に並べられて、お父さま(御開山上人)からほめていただいた時、本当にうれしかったです」

「お父さま(御開山上人)が、僕たちの作った机や腰掛けを見てくださって『とても立派にできましたね。一本の釘、一枚の板にもまことの精神がこもっています。立派であることは、皆さんの真心が立派に表されているからです』と言われた時は、本当にうれしい心持ちでした」

「『皆さんのにこにこした顔を見ると昔のえらい人の顔のようで、とても尊い顔に見えます』と言われた時に本当にうれしく思い、もっともっとまことの心で美しい物を作っていこうと思いました」

一生懸命に働いてほめられる、これ程うれしいことはありません。でも一番うれしかったのは御開山上人だと思います。杉山先生の言われた、本当の幸せを手に入れられた喜びでいっぱいだったのではないでしょうか。

御開山上人は生涯、縁ある人々の幸福のために働きづめに働かれました。苦労の多い人生だったと思われる方もあるかもしれませんが、私は幸せにあふれた人生だったと思います。

皆さん、働くことは幸福の源泉です。私たちは働くために生まれてきたのです。人の価値は、その働きによって定まります。「真・善・美・聖」の精神をもった働きこそが最高無限の喜びと価値をもたらすものです。おたがいに頑張りましょう。