私は若い頃、生まれ変わりに強く興味を抱き、関係書籍を何冊も読んだことがあります。今回改めてこのテーマにふれようと思いたったきっかけは、ノーベル平和賞受賞者であるチベットのダライ・ラマ法王の最近の発言です。
法王は今年7月6日に90歳を迎えられましたが、その少し前に「輪廻転生制度を継続させる」と明言されました。中国政府は「次のダライ・ラマは我々が決める」と主張していましたが、法王は中国政府のそのような姿勢を否定され、伝統的なしきたりに則って後継者を決めることを毅然とした態度で示されたのです。ちなみに「ダライ」とはモンゴル語で「大海」を意味し、「ラマ」はチベット語で「師」を意味します。合わせて「ダライ・ラマ」とは「大海のような知恵を備えた高僧」という意味の称号になります。
日本では敬意を込めてダライ・ラマ法王と呼びますが、ダライ・ラマを敵視している中国政府は「ダライ一派」と呼び捨てにしています。
仏教には「輪廻転生」、すなわち生まれ変わりの思想が根本にあります。生前の行いによって次の生が決まるという考え方で、善行を積めば良い世界へ、悪行を重ねれば苦しみの世界へと生まれ変わるとされます。この因果の理法は「カルマの法則」と呼ばれます。
ダライ・ラマ法王は「死に近い時期に行ったことが生まれ変わりに重要な影響を与える」と語られています。たとえば過去に悪行を犯していたとしても、死の直前に善行を行えば、そちらの方が生まれ変わりに強く影響するというのです。
この教えにふれると〝どんなに悪いことをしても、最後に善いことをすればいいのか〟と思われる方もあるかもしれません。しかし、いつ死を迎えるかは誰にもわかりません。ですから、日々の懺悔と心の浄化が大切なのです。悪行を悔い改め、心を正し、行いを変えることで、良い世界に生まれ変わる可能性が広がるのです。
仏教では、徳を積み重ねた者は輪廻転生の輪から解脱できるとされます。しかし、ダライ・ラマ法王は徳を積み重ねながらも輪廻を繰り返します。それは、観世音菩薩の化身として、敢えて生まれ変わって現世に留まり、人々を苦悩から救済するためだそうです。
先代のダライ・ラマ13世が亡くなった後、転生者(生まれ変わり)探しが始まりました。ポタラ宮に安置されていたダライ・ラマ13世の遺体の頭部がいつのまにか北東を向いていたことから〝生まれ変わりは北東にいる〟と推測されました。さらに、捜索隊は聖なる湖ラモイ・ラツォ湖へ行きます。そこでは湖面に「Ah」と「Ka」のチベット文字が浮かび上がります。さらに青色と金色の屋根の三階建ての僧院と、それに続く道の先に民家が見えたといいます。
そこで捜索隊は、「Ah」はアムド地方を意味し、「Ka」はクムブム僧院だと推測しました。現地に赴くと、湖面に出た通りの民家を発見します。そこには2歳の男の子がいました。捜索隊が男の子にダライ・ラマ13世の遺品と、遺品そっくりの別の物を見せると、男の子はことごとく13世の遺品を「僕のだ」と言って選んだのです。こうして男の子はダライ・ラマ13世の生まれ変わりの14世と認定されたのです。
その後、14世はポタラ宮に移り住み、ダライ・ラマとしての英才教育を受けるのですが、1950年、中国の人民解放軍がチベットを占領併合し、漢民族による同化政策が推し進められます。この後、騒乱に発展し、多数の死傷者が出た後、僧侶150人以上が抗議の焼身自殺を遂げたといいます。
ダライ・ラマ法王は混乱を避けてインド北部のダラムサラへ亡命し、現在も亡命政府がそこに存在しています。1989年には、その中国に対する非暴力活動が評価され、ノーベル平和賞を受賞されました。
チベットでは、ダライ・ラマが最高位の存在であり、次にパンチェン・ラマが位置づけられます。両者は互いの後継者を認定する役割を担っています。しかし、パンチェン・ラマ10世の死後、ダライ・ラマが11世として認定した6歳のニマ少年は突如消息を絶ち、現在も行方不明です。中国政府は独自に選んだ少年をパンチェン・ラマ11世として即位させましたが、チベットの人達はそれを偽者として受け入れていません。
このような状況の中、ダライ・ラマ14世は「輪廻転生制度を継続させる」「中国政府には介入させない」と明言されたのです。
今回私は、ダライ・ラマ法王のニュースから改めて生まれ変わりへの関心を持ちました。
昨年、テレビ番組『クレイジー・ジャーニー』(TBS)では、中部大学の大門正幸教授が「生まれ変わり」はアメリカでは「超心理学」という学問として確立されていると語っていました。番組では、「自分は戦艦大和の乗組員だった」と語る少年や、「9・11(アメリカ同時多発テロ)で亡くなったアメリカ人の生まれ変わりだ」と証言する日本人の少年ユウ君の話が紹介されました。ユウ君は、トーマス・リーガンというビジネスマンの生まれ変わりである可能性が高く、実際にアメリカでリーガン氏の姉と面会し、大変喜ばれたとのことです。
《勝五郎の証言》
生まれ変わり研究の原点ともいえるのが、江戸時代の少年、勝五郎の話です。文政5年(1822)、多摩郡中野村(現在の東京都八王子市東中野)に生まれた8歳の勝五郎が、前世の記憶を語り始めました。
「おら、前は程久保の久兵衛さんて人の子で、名前は藤蔵だったんだ。おっかあの名前はしづさんって言った。おらが5歳の時に久兵衛さんが死んで、半四郎さんて人が新しいおっとうになって、おらを可愛がってくれた。でも次の年、おら6歳だったんだけど、疱瘡にかかって死んじまった。それから三年経ってから、今のおっかあのお腹ん中に入って、もう一度生まれたんだ」
8歳の勝五郎の話に、両親と祖母は驚きましたが、子どもの言うことだと思って、しばらく放っておきました。するとその後、祖母のツヤに向かって、勝五郎が再び語り始めました。
「4歳(今の3歳)くらいまでは、みんな覚えていたけど、それからどんどん忘れていっちゃった。でも疱瘡で死んだことは覚えてる。桶に入れられて、丘に埋められたのも覚えてる。地面に穴があいてて、大人達が桶をそこに落としたんだ。ポンって落っこちた。その音もよく覚えてるよ。それで、どうしてかわかんないけど、いつの間にか家に戻ってて、枕の上のところにいたんだ。しばらくすると、おじいさんみたいな人がやって来て、おらをどっかに連れてった。誰なんだか、何してる人なんだか、よくわかんない。歩いて行ったんだけど、なんだか空を飛んでるみたいな感じだった。夜でも昼でもなくて、いつもお日さまが照ってるような所だった。寒くも暑くもなかったし、腹も減らなかった。とっても遠くまで行ったような気がする。でも、かすかにだけど、ずっと家のみんなの声が聞こえてた。おらに読んでくれてる念仏の声もね。家の人が仏壇の前に、あったかい牡丹餅を供えてくれたのも覚えてる。お供えから出てる湯気を吸い込んだのも覚えてる。ばあちゃん、仏さまにあったかい食べ物をお供えするのを忘れちゃダメだよ。それから、お坊さんにもね。そうするのは、とっても良いことだと思うんだ。それから後は、おじいさんみたいな人が、この家に連れてきてくれたのを覚えてるだけだ。村への道を通ってここに来ると、その人はこの家を指さして言ったんだ。『さあ、生まれ変わらないといけないよ。もう三年経ったんだから、この家に生まれるんだ。この家のおばあさんはとっても優しいから、お母さんのお腹に入って生まれるがよい』。そう言うと、その人はどこかへ行ってしまったんだ。しばらく玄関の柿の木の下にいて、それから家に入った。そしたら、誰かが『おっとうの稼ぎが少ないから、おっかあが江戸に働きに行かなきゃならねえ』って言うのが聞こえた。それを聞いて、〝ああ、この家は嫌だな〟って思って、三日の間、庭にいた。三日目に、とにかくおっかあは江戸に行かなくていいって話になったから、その日に雨戸の節穴を通って家の中に入った。それからまた三日、かまどの横にいて、それからおっかあのお腹の中に入ったんだ。お腹の上の方にいたら、おっかあが辛いかなと思って、横の方に寄って行ったこともよく覚えてるし、生まれた時、大変じゃなかったこともよく覚えてる。ばあちゃん、この話、おっとうとおっかあには話してもいいけど、ほかの人には絶対話しちゃダメだよ」
やがて、勝五郎は「程久保に行って、久兵衛さん(前世の最初の父親)の墓参りがしたい」と言い出し、文政6年、祖母のツヤと一緒に歩いて程久保村へ向かいました。一里半(約6キロ)ほど歩いて村に着くと、勝五郎は見知った場所のように振る舞い、ツヤを引っ張ってある家の前まで来ると、「ここだここだ」と言って、ツヤを置き去りにして勝手にその家に入って行ったのです。
驚いたツヤは、周囲の人に尋ねました。
「この家のご主人はどなたですか?」「半四郎さんだよ」「奥さんのお名前は?」「しづさんだよ」「この家には藤蔵という子どもはいませんでしたか?」「ああ、いたけど、13年前に死んじまったよ」
勝五郎の話は事実だったのです。ツヤが半四郎夫妻に勝五郎の話をすると、二人は驚き、涙を流して勝五郎を抱きしめ、
「ああ、藤蔵の時より、ずっと男前になったなあ」と言いました。そこで勝五郎は「あの店の屋根、前はなかったよね。あそこの木もなかった」と言い、それも事実だったので、半四郎もしづも、〝本物の藤蔵だ〟と確信したということです。
この話は「ほどくぼ小僧」として世間に広まり、当時の調査でも信憑性が高いと認められました。
またラフカディオ・ハーン(小泉八雲)によって短編集『仏陀の国の落穂』の中で紹介され、世界中に知られることとなりました。中でもアメリカの精神医学者イアン・スティーブンソンがこの話に影響を受け、生まれ変わりの研究に取り組みました。彼は39歳という異例の若さで、バージニア大学医学部精神科の主任教授の任に就いた、新進気鋭の研究者です。彼は〝人間を全体として理解したい〟との思いから、生まれ変わりの研究に取り組み始めました。
スティーブンソンは世界中を調査し、〝これは間違いない〟とされる事例を集めて書籍や論文にまとめました。88歳で亡くなるまでに15冊の著書と、生まれ変わりに関する259本の論文を執筆しました。
今回はその中から一つだけ紹介します。
《前世が鳥だった少年の証言》
スティーブンソンの調査の中でも異色の事例として知られる、「前世が鳥だった」という少年の話です。これはカルマの法則、すなわち因果の理法を理解する上でも示唆に富んだ内容です。
スリランカの田舎のある村に、ウィジラトネという少年がいました。彼は生まれつき右手の指がすべてくっついており、開くことができませんでした。まだ2歳半の頃、彼は両親にこうつぶやいたのです。
「僕の手が変なのは仕方がないんだ。前に生きていた時に奥さんを殺したんだもの」
また、こんなことも言いました。
「今のお父さんは、僕が前に生きていた時には、兄さんだったんだ。その時の僕は、ウッガルカルトータという村の農民で、ラトラン・ハミという名前だったんだよ」
これを聞いた父親は驚きました。20年前、自分の弟であったラトラン・ハミが、自分の子どもとして生まれ変わってきたことを知ったからです。
ラトラン・ハミは、妻を刃物で刺し殺した罪で逮捕され、翌年に絞首刑となりました。処刑前、彼は兄にこう言い残しています。
「自分は死を恐れていない。兄さんのところにまた戻ってくるよ」
ウィジラトネの証言は、コロンボの仏教大学の教授によって細かな検証がなされ、信憑性が高いとされました。ウィジラトネ少年は、ラトラン・ハミの処刑前の様子を詳細に語り、それが本人しか知り得ない内容であったことから、生まれ変わりに間違いないとされたのです。
ラトラン・ハミは死の直後、「火のるつぼに落ちるような感覚があった」と語り、次に気がついた時には鳥になっていたといいます。そして今世、ウィジラトネという少年として生まれ変わったのです。
スティーブンソンはこの事例について、「一度鳥になったこと、また手が不自由であることは、前世での妻殺しというカルマの結果であろうか」と述べています。
《『倶舎論』に見る輪廻の仕組み》
生まれ変わりの話は、仏教経典の解説書にも説かれています。4世紀頃の僧侶・世親が1600年以上前に著した『倶舎論』に、次のような記述があります。
「人間は死ぬと、肉体とそれ以外のものに分離する。分離した肉体以外のものは、生きている者には見ることができない。この存在は『細身』と呼ばれる非常に微細な粒子の集まりであり、壁などを自由自在に通り抜けることができる。また目や鼻などの器官はないが、生きている人間と同じような五感を持ち、特ににおいに敏感である。善行を積んだ者の『細身』は良い香りを好み、悪行を重ねた者の『細身』は悪臭を好む。この粒子の集まりは、次に生まれ変わるのを待って空間を漂っている。そして、すぐに生まれ変わる『細身』もあれば、長く漂う『細身』もある。そして、生まれ変わる先は、自分では選ぶことはできず、その『細身』にふさわしいところへ自然に入っていくのである」
まさに生まれ変わりの様子です。この話は次回に続きます。