今回は、御開山上人と日本福祉大学の開学についてお話をします。御開山上人は20歳になる前から商才を発揮し、かなりの成功を収めておられました。それにもかかわらず、あまり楽しさを感じられず、心が満たされないという思いが募っていました。〝人生の真理や本当の幸福というのは別のところにあるのではないか〟と、深く悩まれていたのです。
そんな折、叔父の鈴木芳蔵さん(後の鈴木慈学上人)や祖父江つなさん(後の祖父江妙綱法尼)が、「名古屋にすばらしい女性(杉山辰子先生)がいらっしゃるから、一度会ってみるといい。お会いすれば悩みは雲散霧消すると思うよ」と勧められました。
御開山上人は杉山先生を訪ね、お話を聞き、その教えがまさに求めていた答えであると実感されました。そして、〝人生の喜びや本当の幸せは、徳を積み重ねることによってのみ得られるものである〟と確信されました。徳を積むとは、困っている人、苦しんでいる人、不遇な人を助けることです。
杉山先生の命で最初に取り組まれたのはハンセン病患者の救済でした。この活動は数年間続き、その後はライフワークとして孤児・貧児・戦争孤児・障がい児の養育と教育に力を注がれました。御開山上人の人生のほとんどが、こうした子ども達の支援に費やされたと言っても過言ではありません。
《専門家養成の必要性と大学設立》
御開山上人は子ども達の養育を続けるうちに、専門家の必要性を痛感されました。〝専門知識のない者が子ども達を育てるよりも、専門的な知識を持った人が取り組むべきだ〟と考えられたのです。その思いから大学設立を決意されました。
大学設立のもう一つの大きな理由として、杉山辰子先生への報恩の念がありました。杉山先生は、社会事業施設の経営とともに社会教育のための学校を設立しようと考えておられました。昭和7年6月初旬、杉山先生は東京に赴かれ、当時の陸軍大臣・荒木貞夫氏に面会し「名古屋市鍋屋上野町にある陸軍所有の土地を払い下げてもらえないか」と懇請されました。
しかし、この直後、6月17日頃から杉山先生は体調を崩され、6月28日にご遷化されました。そのため、この話は頓挫してしまいました。とはいえ、学校設立は始祖以来の念願事業となったのです。
二祖の村上先生の時代になって昭和16年9月、「中部社会教育学院」が大乗修養団主催により大乗会館で開催されています。修業年限は一年で毎週二回、火曜と金曜の夜に授業があり、「社会教育指導者としての識見を涵養し、技能を修得する」ことが目的とされ、授業料は無料でした。しかし、これも戦争の激化により、継続できませんでした。
《杉山辰子先生の理念と活動》
大正5年、東京支部が上野桜木町に設立されました。仏教感化救済会発足と同時に杉山先生は、一般信徒の拡大とともに、日本の指導者層に働きかけることを意図されていました。そこで東京支部を拠点として、名士の戸別訪問を始められたのです。政治家・軍人・大学教授・思想家といった社会の中心となる人物を訪問し、救済会の趣旨と事業内容を説明し、この世の不幸は罪障によって起こり、妙法の実践によってのみ、その不幸から逃れることができることなどを熱烈に説いて回られたのです。こうした努力によって、大正13年には救済会の趣旨に賛同を得た名士の数は、144人に上りました。そしてこれらの名士から、書の揮毫が得られることになったのです。そして〝一か年継続した信徒の方には、これらの名士の揮毫が与えられる〟という特典を設けられたのです。現在も法音寺には玄洋社の頭山満や二・二六事件で暗殺された高橋是清の遺墨が保存されています。
東京支部が、上野桜木町から武蔵小山に移転した頃、大阪にも堺市大浜公園前に支部が設けられました。杉山先生は大阪では小学校の校長先生を尋ね歩かれ、妙法の真理を説き、菩薩行の実践を勧められました。その結果、大阪ではいくつもの小学校で大講演会が開催され、ある小学校では例会が催される程でした。
これは余談ですが、当時、杉山先生は東京市長の後藤新平とも何度か会われていました。後藤新平は、台湾が日本の領地だった頃、台湾総督府民政長官として現在の台湾の繁栄の礎を築いた人物です。また、関東大震災後には帝都復興院総裁として荒廃した東京の再建に尽力した偉大な指導者でもあります。
数年前、後藤新平のお孫さんである内山章子さんが突然東京支院を訪ねてこられ、一緒に記念写真を撮りました。『法音』で後藤新平と台湾について書いた直後でしたので、不思議な縁を感じました。
また、杉山先生は小笠原長生海軍中将とも交流を持たれていました。小笠原中将は、東郷平八郎元帥の副官を務め、東郷元帥を顕彰するために日蓮宗東郷寺を建立し、東郷至誠会という修養団体を設立した人物です。
《戦中の試練と復興》
戦時中、大乗報恩会は疑似宗教の疑いをかけられ、特別高等警察の取り締まりを受けて、御開山上人が58日間拘留され、宗教活動を一切禁止されました。その頃、東京支部長が小笠原中将のもとに今後の相談に赴いたところ、「東郷至誠会に加入してはどうか」と提案を受けました。これを機に、東京支部と支部長の出身の三河支部を中心とした信徒達は大乗報恩会を脱会して東郷至誠会へ加入し、戦後は新たな宗教法人を立ち上げました。
戦後、東京支部の土地と建物が残ったことが、経営難から御開山上人が引き受けられた名古屋養育院や知的障がい児施設・八事少年寮の運営に大きく寄与することになりました。ことに名古屋大学医学部精神神経科教授・杉田直樹博士が個人の資金で運営されていた八事少年寮は、杉田博士が定年退官を迎えて愛知県への移管を求められましたが、先例がないことと財政難を理由に愛知県はこれを断りました。困り果てた杉田博士は御開山上人に「頼れるのはあなたしかいません」と相談され、御開山上人は「わかりました」と即答されました。
御開山上人は東京支部の土地・建物や名古屋の遊休不動産を売却した資金をもとに、八事少年寮の建物の改修、隣地の購入、更に必要となった建物の新築、人員の確保などを行われました。この支援により、名古屋大学医学部精神神経科の関係者は深い恩義を感じ、後に中部社会事業短期大学設立の際、この関係者が協力を惜しまなかったのです。
《大学設立の背景》
戦後になり昭和22年に児童福祉法、昭和26年に社会福祉事業法が制定され、福祉は個人の慈悲から、国や地方自治体の責任になりました。日本も福祉国家への道がようやく開けたのです。
しかし福祉に携わる人材が圧倒的に不足していました。そのため、東京に日本社会事業短期大学、大阪には大阪社会事業短期大学が設立されました。東海地方でも、県や福祉事業に携わる人達の間から短期大学設立を望む声が高まっていました。この時、「よし、私がやりましょう」と福祉教育の松明を高々とかかげられたのが御開山上人だったのです。
この頃、厚生省では名古屋の民間の社会福祉事業家が独力で社会事業短期大学を創ろうとしていることに大きな関心を寄せ、1500万円の補助金を支出することを決定しました。ところが、この決定は直前になって覆されました。アメリカから再軍備の要請があり、自衛隊の前身である警察予備隊創設が決まり、防衛費のために社会保障費が削減されたからです。御開山上人にとってこれは大きな誤算でした。しかし、やめるわけにはいきません。御開山上人は全国の信徒に寄付を訴えました。中には苦闘される御開山上人の姿を見るに堪えず「山を売ってきました」「田んぼを売ってきました」と言って、現金を包んだ大きな風呂敷包みを持ってこられる信徒の方があったそうです。
また、文部省は恒久的な大学経営の経済的基盤を求めましたが、御開山上人は「法音寺護持会」を組織化して、これに答えられました。さらに、専門家のスカウトや図書館の書籍の購入も御開山上人自ら行われました。
スカウトされた著名な教育者として、ハーバード大学を出られた医療ソーシャルワーカーの第一人者・浅賀ふさ先生が挙げられます。厚生省に勤めておられた浅賀先生は御開山上人の人柄に感銘を受け、名古屋で教鞭をとることを決められました。
浅賀先生の言葉です。
「修学先生とのこの時の出逢いは、私のその後の生涯の出発点となり、私は二十一年間の名古屋の生活の中で多くの人間的成長を助けられる機会が与えられ、また、はかりしれない多くの方達から人間的ぬくもりを受けることのできた、意義深い出発点でございました。私を決断させた最も大きな要因は、愛の実践者としての修学先生の悠揚せまらぬ大きな御人柄に引きこまれたからであったと思います。仏縁につながれた幸せな出逢いであったと思います」
浅賀先生のご生涯は学園創立70周年記念ラジオドラマ「さいしょの一歩~浅賀ふさ物語」としてCBCラジオで放送されました。
《建学の精神》
昭和27年12月、「学校法人法音寺学園設立認可」との電報が、身延山の大荒行堂で、再行入行中の御開山上人のもとに届きました。御開山上人はその場で大学の「建学の精神」を書き上げられました。この「建学の精神」は、命を削るような修行の中から生まれた、御開山上人の魂の言葉です。
明けて4月20日、中部社会事業短期大学の入学式が行われました。御開山上人は、朗々と「建学の精神」を読み上げられました。
「中部社会事業短期大学は、その根本精神として、高く清き宗教的信念に根をおろした教養が積まれる場所でありたいと願うのであります。社会事業の経営について深い問題を研究すべきはもちろんでありますが、社会事業の専門的知識人をつくることよりも、永遠向上の世界観と、大慈大愛に生きる人生観を把握した健全な人格を育て、広い世界的視野を持ちつつ、社会事業を通じて、我が人類のために、自己を捧げることを惜しまぬ志の人を現代の社会に送り出したいのであります。今や新しい日本は、新しい文化的基盤を要求しております。それは、真・善・美・聖の精神文化、特に従来不振の状態にある聖―すなわち信仰を他にして、奈辺にも見出しがたいのであります。
この悩める時代の苦難に身をもって当たり、大慈悲心、大友愛心を身に負うて、社会の革新と進歩のために挺身する志の人を、この大学を中心として輩出させたいのであります。それは単なる学究ではなく、また、自己保身栄達のみに汲々たる気風ではなく、人類愛の精神に燃えて立ち上がる学風が、本大学に満ちあふれたいものであります。
釈尊のお言葉、『我が如く等しくして異なることなからしめんと欲す』この一偈を、精神的根源としたいのであります。これぞ本大学学徒等の、魂の奥底に鳴り響かせるべき、真理追究の基調でなければならないのであります」
御開山上人の崇高な思いがひしひしと伝わる文章です。
この後、中部社会事業短期大学は昭和32年4月、四年制大学に昇格します。日本で初めての社会福祉の四年制単科大学の誕生でした。御開山上人は、この大学を「日本福祉大学」と命名されました。
結びに中部社会事業短期大学で学び、卒業式で御開山上人から学長賞を受け、後に職員として奉職された中村宗信さんの言葉です。
「今や多くの社会福祉の分野が公的責任として基礎づけられ、体制の整備が急がれている時代になりましたが、修学先生のお仕事はその先駆であり、整備なき、権利なき時代の国民への菩薩行であったことを思います。そして、そこには現代に受け継がれている社会福祉の実践倫理が示されています。思うに、全国に誇りうるすばらしい大学も、修学先生の捨て身の利他行がなかったならば、ここに生まれることはできませんでした」