運命は自分から作り、 幸福は自分から求めるもの ①

掲載日:2018年10月1日(月)

私達は徳の人を見ると、心が晴れやかになり、〝あのような人になりたい。少しでも近づきたい〟と思うものです。

山口県周防大島町で行方不明になった2歳児を救出して、時の人となったスーパーボランティアの尾畠春夫さんは正に徳の人だと思います。尾畠さんは幼児救出後、すぐに、西日本豪雨で被害を受けた広島県呉市でボランティア活動に参加されました。テレビで観たのですが、尾畠さんは現地で大人気で、住民の方々はもちろん、他のボランティアからも大歓迎を受けておられました。尾畠さんを見ていると観世音菩薩がこの娑婆世界に遊ぶが如く、本当に徳を積むことを楽しんでおられるように見えます。

新渡戸稲造博士が名著『修養』の中で次のように言っておられます。

「徳には名誉も黄金も及ばぬ保存力と快楽とがあるものと見ゆる。金ある者は、あるいは失敗して一夜にこれを失うことがある。人に嫉まれたり、うらやまれたりすることもある。しかし、徳の人は火災に喪失するの憂いもなく、人に嫉まれることもない。むしろ、嫉む人を教化する力がある。そして、人の知らぬ所、知り得られぬ楽しみがある。暗夜も畏るることなく、朝起きて日光の輝けるを迎うれば、実に日光を心に反射し、雨が降っても風が吹いても、胸中は常に嬉嬉として、晴れた天のごとくである。到る所に楽地ある心地して、我々の味わうことのできぬ快楽がある。いわば他人の食うものと、別なるものを食うておるがごとき観がある」

新渡戸博士が尾畠さんのことを言っておられるような感じがいたします。

昔から日本人は徳というものを大変重んじてきました。江戸時代に中国から日本に伝わった『陰騭録』という書物があります。これは「徳と罪」「因果の二法」について書かれた本です。

著者は中国の明の時代の高級官僚で袁了凡という人です。この人は経歴の最後には軍隊の指揮をとり、豊臣秀吉の朝鮮の役で加藤清正の軍と戦い、これを咸鏡において打ち破ったとされています。

袁了凡は若い頃、運命論者でした。ある高僧に出会って、運命論者から運命開拓者に変わりました。この話が江戸時代に日本に伝わり一般庶民にまで広く浸透しました。今でも『陰騭録』について書かれた本は何種類も出版されています。先日、通販サイトのAmazonには、子ども向けのものもありました。

『陰騭録』の「陰」とは、「ひそかに」という意味です。そして「騭」は、「定める」という意味です。つまり、「天は人間の日々の善悪の行いをひそかに照覧して、禍福の運命を定める」ということです。

袁了凡がなぜこの本を書いたかというと、一人息子の天啓への訓示として、自分の生涯をかけて実行したことを書き残したのです。そして天啓やその子孫が、『陰騭録』を自分達のものだけにしておくのはもったいないということで、中国で広まり、日本にも伝わり、そして現代にもつながっているのです。

『陰騭録』の第一章は「立命の学」です。ここには、袁了凡の実体験が書かれています。

昔、中国では「科挙」という官吏登用試験があり、それに合格することが人生の大目標でした。現代の日本でいう国家公務員試験です。この試験に合格する最終順位が、その後の地位をすべて決定していました。第一番は状元、第二番は榜眼、第三番は探花と称せられ、一生涯の名誉、一族の名誉とされました。そういう特別な試験だったので、当時の人々はみんな科挙に受かりたいと一生懸命でした。

科挙は中国の隨の時代、日本で言えば聖徳太子の時代に始まりました。そして清の時代に終わっています。日本では明治時代に、科挙と同じような国家公務員試験が始まりました。その昔、中国では胎教が盛んでした。ここでいう胎教とは、科挙に合格するためのものでした。今はクラシック音楽を聴かせると胎教に良いとされていますが、当時の中国では科挙の教科書の一つである詩経を読んで聞かせていました。

袁了凡は子どもの頃にお父さんを亡くし、とても貧乏な暮らしをしていました。それでも、科挙に合格しようと頑張っていましたが、お母さんがある時「もうそろそろ科挙に受かるのはあきらめて、生活のことを考えてほしい。うちは代々医者の家系だから医者になってほしい。そうしたら生活にも困らないし、人助けもできる。このことはお父さまも望んでおられたよ」と促しました。それを聞いて袁了凡は納得しました。その後、たまたま近くのお寺にいると、そこに白く長いひげを生やした仙人のような老人が現れて、袁了凡に「お前に会って将来のことを全部教えてやろうと思い、遠くからやってきた」と言います。その老人は孔といい「私は邵康節という大易者の流れをくむ者だ。私には何でもわかる」と言い、袁了凡本人しか知らないこれまでの人生のことを言い当てました。袁了凡は自宅に孔老人を招き入れました。そこで、孔老人は「お前は今医者になろうと思っているな。やめなさい。さすれば来年、科挙の最初の試験に受かるぞ」と言います。それも試験の合格順位まで予言したのです。袁了凡は、これまでの人生をすべて言い当てられていたので、それを信じて「わかりました。医者になることはやめます。また科挙の勉強をします」と言いました。そして、さらに生涯を占ってもらい、「次の試験は何番で合格。その次は何番。何年にはいくらの俸給をもらい、何年には貢生となり、その後、四川省の長官に選ばれ、在任2年半で職を辞し、53歳の8月14日の丑の刻に表座敷において一生を終えるであろう。惜しいことに子どもがない」と言われ、その聞いたことを丁寧に書きとめました。そして最初の試験を受けてみると、孔老人に言われた通りの順位で受かりました。その次の試験も言われた通りの順位でした。給料の額もその通りでした。すべて言われた通りの人生だったので、袁了凡は完全な運命論者になっていきました。

予言通り貢生となった袁了凡は南京の大学に遊学します。そこで棲霞寺を訪ね、雲谷禅師という有名な高僧に会いに行きました。そして三昼夜、袁了凡は雲谷禅師と座禅を組み、その間一睡もしませんでした。雲谷禅師が「君は一体どういう人だ。まだ年若く見えるけれど、心がまったく動かない。人間というのは一刹那の間に九百の邪念が起こるというが、それがまったく起こらない。どういうことだ」と尋ねました。すると袁了凡は「実は若い頃に、孔老人に自分の人生を占ってもらいました。死ぬ時まで知っています。ですから、私は定まった運命を知っているので、妄想、邪念が起こらないのだと思います」と答えました。それを聞いて雲谷禅師は「すぐれた人物だと思ったが、ただの凡夫か」と言いました。袁了凡が「それはどういうことですか?」と尋ねると、「大易者なら凡夫の運命は全部言い当てることができる。しかし、たくさん徳を積む人は運命が刻々と変わっていくから大易者でもわからない。逆に罪障を重ねていく人も運命が業に引きずられて変わっていくからわからない。お前さんは運命のままに生きている単なる凡夫だ」と答えました。それを聞いて袁了凡はまた質問しました。「それならば、運命というものは逃れることができるものですか?」

これに対して雲谷禅師は「運命は自分から作り、幸福は自分から求めるものである。お前さんがこれから徳分を高め、善事を力行し、多くの陰徳を積むならば、必ずや運命は好転していくであろう」と答えました。それから、功過格という善悪の行いに点数をつけたものを袁了凡に渡しました。これには「人の命を救うとプラス100点」、「人を殺したらマイナス100点」、「浮浪児を引き取って育てるとプラス50点」、「一人を出家得度させるとプラス30点」、「一人の無実の罪の人を救えばプラス30点」など、プラスになる行いとマイナスになる行いが細かく、プラス1点、マイナス1点にいたるまで書かれていました。また帳面を1冊渡し、「日記のように毎日行ったことを書きなさい。そして私が言ったプラスとマイナスを計算して、一日何点だったかを記録しなさい。そして合計3000点をめざしなさい。そして実行し始めたら必ず効験があると信じ切りなさい」と教えました。袁了凡は「わかりました」と返事をし、これまでの自分を深く懺悔して、雲谷禅師の教えにしたがって3000点の善行をすることを仏前に誓います。〝これを達成するまでは絶対に退転いたしません〟と仏前で誓って願文を差し出したのです。

その翌年に科挙の次の試験がありました。孔老人は3番で受かると言っていましたが1番でその試験に受かりました。〝3000点の善行をしよう〟と思って始めただけで、もう結果が変わったのです。3000点を満行したからではなく、懺悔をして心を切り替えて徳を積み始めたことで、もう効験があったのです。

皆さんがお写経を百巻誓われたら、百巻終わるまで効験がないのではありません。一巻目を始めた時からもう効験が現れるのです。

袁了凡は3000点の善行を成就するのに十余年かかりました。それは善行とともに人は悪行もしてしまうからです。成就した翌年、袁了凡は上人方を招いて先祖の回向をしました。「先祖のお陰で良い教えを聞いて徳を積むことができた。これは先祖に感謝しなければならない」ということです。袁了凡はこの後もずっと徳を積み続けます。(次号につづく)