心を変えれば道は開けます

掲載日:2017年4月1日(土)

[公案」に学ぶ

公案という言葉をご存知でしょうか。公案とは俗にいう「禅問答」のことです。

公案には有名なものが3つあります。

一つ目は「隻手の声」、これは白隠禅師の公案で「両手をうち合わせると音がするが、片手でどんな音がするか」というものです。

二つ目は「狗子仏性」、これは「犬にも仏性はあるのか」というものです。

三つ目は「祖師西来意」、祖師とは達磨大師のことです。これは「達磨大師がインドから中国にやって来られた真意は何か」というものです。これは中国・唐の時代に一人の僧が趙州従諗という禅僧に尋ねたものですが、これに対し趙州和尚は「庭の柏槙だ」と答えました。

私などは正に禅問答という気がしますが、公案には完全な定まった答えがあるわけではないそうです。大事なのは「答える人の心」だということです。

執  着

続けて趙州和尚のお話を紹介します。

修行僧が和尚に「私は今一切を捨てつくして、何も持っていません。さあ、私はこれからどうするべきでしょうか」と尋ねると、和尚が「捨ててしまえ」と言います。「捨ててしまえと言われても、もう何も持っていないのです。何を捨てるのですか」と言うと「その捨てるべき何もないというところを捨てるのだ」と重ねて言います。この問答は少しわかるような気がします。

“執着を捨てた”という思いが逆にとらわれとなって強い執着となることがあります。例えば“自分は世間の人々とは違い、執着を離れた崇高な境地にいるのだ”と思うことは、これまた強い執着です。本当に執着を離れることは並大抵ではありません。

断捨離」という言葉が流行ったことがありますが、その極致は「ミニマリスト」と呼ばれる人たちではないでしょうか。生活に必要最低限の物以外、何も持っていない人たちです。そういう人の部屋に入るとモデルルームみたいに何もないそうですが、実際には、モデルルームよりも物が少ないと言う人もあります。

映画監督の紀里谷和明さんが、最近ミニマリストになったと聞きました。紀里谷さんが言われます。

僕も昔は、数十万円もするスーツを30着など、たくさん華美な洋服を持っていました。車も数千万円のものに乗っていました。これらが必要ないと思えるまでには、時間がかかりました。しかし冷静に考えると、それらのモノには、他人の価値観が入っていました。“人から格好いいと思われたい”とか“誰々が良いと言っていたから”などの理由で購入してしまい、自分が本当に必要としているモノではなかったから、無駄な消費だったわけです。僕自身は、ミニマリストやミニマリズムという言葉を意識して生活しているわけではありませんが、ある時、すべてのモノに対し、“これは本当に必要なのか”と自問するようになりました。スーツなども全部で1000万円分になっていたわけで、今思うとゾッとします。10年以上かけて少しずつモノが減っていき、今の状態に至ったという感じです」

お釈迦さまは言われています。

「人間に苦しみをもたらすものは欲望にとらわれる心である。すなわち執着である」

執着を捨て切るのはなかなかにむずかしいことですが、日々努力しなければいけません。

日々是修養

もう一つ趙州和尚のお話を紹介します。

入門したばかりの弟子が「私は修行に入ったばかりのものですが、どうか仏教の根本を教えてください」と尋ねました。和尚は「朝御飯は食べ終わったかね」と聞きました。それに対して弟子は「はい、食べ終わりました」と答えました。和尚は「それならば、自分の茶碗を洗いなさい」と言われただけでした。つまり、日常の基本的なことをきちんとすることが仏教の根本だということです。道元禅師は「日常の行住坐臥を究めることによって、禅を究める」と言われています。

私が中学生の頃、ある人に「どうすれば勉強ができるようになりますか」と聞いたことがあります。

その人は「3つのことをすると良い」と言われました。

一つ目は毎日お父さんの靴を磨くこと。

二つ目は玄関の掃除をすること。

三つ目は食事の後片づけをして食器を洗うこと。

今振り返ると、とても良いことだったと思います。

父親の靴を磨くというのは「頭面摂足帰命礼」です。お釈迦さまのおみ足をいただくのと同じように、親を敬う気持ちが大事だということを教えられました。

掃除や食器の後片づけをすることも、本当に大事なことだと思います。

世界的プロテニスプレーヤーの杉山愛さんのお母さんが「ああいうお子さんに育てるにはどうしたらよいのですか」という質問を受けました。それに対して「特別なことを教えるのではなくて、普段が大事ですよ。普段ちゃんとした生活を送っていると、その成果が出るのです。練習ばっかりしていても本番で力はなかなか出ないものです。本番で力を出すためには、普段の生活が大事です。玄関の靴を揃えるとか、本を毎日15分読むとか、そういった毎日の目標を自分で決めて、それをコツコツ積み重ねていくことによって試合で力が発揮できるのです」と言われていました。

特別な時に力を発揮するには、日常の積み重ねが大事なのだと改めて思わされました。

虻からの悟り

次は曹洞宗師家会会長の青山俊董法尼の法話集からのお話です。これは公案ではありませんが、聞き手の心次第ということで公案に近いものと思います。

江戸末期、風外禅師という方が、大阪の破れ寺に住んでいました。ある日、川勝太兵衛という富豪が人生相談にやってきました。太兵衛がいろいろと悩みを訴えていると、そこへ一匹の虻が飛び込んできました。

建てつけの悪い戸の隙間から飛び込んできた虻は、ここから出ようと思う窓に勢いよくぶつかっては落ちるという愚を繰り返しました。風外禅師は太兵衛の話を聞いているのかいないのか、虻ばかりを見ていました。たまりかねた太兵衛が、思わず「禅師さまはよほど虻がお好きとみえますなあ」と言うと、風外禅師は「やあ、これはすまんことでした。しかしあまりに虻がかわいそうでなあ。この寺は有名な破れ寺で窓も障子も破れているし、建てつけもガタガタ。どこからでも出ていくところはあるのに、ここからしか出られぬと思って、そこへ頭をぶつけてはひっくり返る。こんなことをしていたら死んでしまうわいな。しかし、かわいそうなのは虻ばかりじゃないの。人間もよう似たことをやっておりますなあ」と語りました。

虻にことよせての教化に太兵衛はハッと気づき、思わず「ありがとうございました」と、畳に頭をすりつけてお礼を言って帰ったということです。

この話を澤木興道老師から聞いた評論家の田中忠雄という人が、ある会社の講演会で話したところ、数日してその会社の女性社員から手紙が届きました。

私は一人の男性を愛しております。事情があってどうしても結婚できず、絶望して死のうと思いました。会社の仕事も整理し、帰って死のうと思っておりましたら、課長さんが『今日は講演会があるから受付をするように』と言われました。ぼんやりと受付に座っている私の耳に、虻の話が飛び込んできました。その瞬間、『アッ!私は虻だった』と気づいたのです。私は虻だったと気づいたら、生きて行く勇気が湧いて参りました。先生は命の恩人です」

この手紙に対して田中氏の返事は「あなたの命の恩人は、私ではなく虻です。これからの人生にも、いろいろな山坂があるでしょう。行き詰ったと思った時、虻を思い出してください」でした。

 誰しも、太兵衛やこの女性のように虻になってしまう時があるものです。そういう時にこの虻の話を思い出すと、執着や思い込みから離れて新たな道や出口が目の前に現れてくるのではないでしょうか。

心を変える

窮地に陥ると人間は、なかなか物事を冷静に見ることができないものです。そして、思いつめて自殺をしてしまう人が残念なことに少なくありません。

私が同窓会に行った時、自殺をした二人の同窓生の話を聞きました。一人は失恋し、電車のホームから飛び込んだのです。「その人しかいない」と思いつめてしまったために起きた、悲しい出来事です。

上智大学名誉教授の渡部昇一先生は、恋人に振られて落ち込んでいる学生がやってくると「良かったな」と声をかけられるそうです。そして「これは吉兆だよ。もっと良い人が現れるということだよ。前祝いに一杯飲みにいこう」と言われるのだそうです。するとその後、「先生の言われる通り、良い人に出会えました」という報告が必ずあるそうです。思いを変えることによって、物事の見方が変わり、人生は開けていくものです。

もう一人の同窓生は、商売で失敗して車の中で練炭自殺をしていました。アメリカの大統領になられたトランプさんは、4回も倒産を経験されているそうです。4回倒産されましたが、奮起してまた億万長者となり、大統領にまでなられました。

人生は「七転び八起き」と言いますが、NHKの朝ドラ「あさが来た」のモデルとなった広岡浅子さんは「九転び十起き」を座右の銘としていたそうです。先年ノーベル医学生理学賞を受賞された大村智さんも「成功した人は、人より倍も三倍も失敗している」と語っておられます。かのエジソンは言っています。

「それは失敗じゃない。その方法でうまくいかないことがわかったんだから成功なんだ」

人生に起こることはすべて「捉え方」次第です。自分の心次第なのです。