「無私」の天皇をいただく幸せ

掲載日:2017年10月2日(月)

今回は昭和天皇のすばらしい御人格についてお話をさせていただきます。

昭和天皇が連合国最高司令官・マッカーサー元帥に初めて会われたのは、終戦間もない昭和20年9月27日でした。マッカーサーは厚木基地に降り立ち、焼け残った第一生命ビルをGHQ(連合国最高司令官総司令部)の本部にしていました。その日、昭和天皇は通訳一人を伴ってシルクハットに燕尾服という正装でマッカーサーを訪ねられました。

マッカーサーは、「本土決戦」となっていたら、およそ100万のアメリカ兵が必要で、その半数は戦死していただろうということや、それが昭和天皇の御聖断により一挙に終戦となり、日本人も助かったけれどもアメリカ兵も助かったということを知っていました。さらに、昭和天皇が初めから戦争に反対だったということも知っていたのです。

太平洋戦争は昭和16年12月8日、「真珠湾攻撃」により始まりました。9月6日の御前会議で昭和天皇は「外交による解決を優先せよ」と言われました。そして、明治天皇の御製を二度朗誦されました。

「四方の海 みな同朋と 思う世に 
       など波風の 立ちさわぐらん」

これは「開戦を望まない」という思召しを暗黙のうちに御示しになったものです。

日本はイギリスと同じで“天皇は君臨すれども統治せず”の立憲君主国です。ですから最後は政府の決定に従わざるを得ず、開戦となったのです。このことをマッカーサーは知っていました。

昭和20年8月15日にようやく終戦を迎えるのですが、3月10日には東京大空襲があり、一晩で10万人近い方が亡くなりました。その後、広島、長崎に原爆が投下され、ソ連が日ソ中立条約を破って満州に侵攻してきました。日本の敗北は決定的でした。しかし、政府首脳の間では「“本土決戦、一億玉砕”を前提として、もし降伏をするならいろいろな条件をつけて降伏をするべきだ」という意見が半分ありました。もう半分は「天皇の統治大権のみを条件として、後は無条件で降伏する」という意見です。

昭和20年8月10日午前0時、昭和天皇親臨の下、御前会議が開かれました。そこでは鈴木貫太郎首相、東郷重徳外相、阿南惟幾陸相、米内光政海相、梅津美治郎参謀総長、豊田副武軍令部総長、平沼騏一郎枢密院議長の7名が御前に座りました。この会議で、鈴木貫太郎首相を除いた6名の意見が3対3に分れました。「玉砕」か「和平」かです。議長の鈴木首相は「議長の一票で決めるべきであるが、自分の一票で決めるにはあまりにも重すぎる。全く前例のないことであるけれども陛下の御聖断をいただくほかない」と、昭和天皇に御聖断を仰ぐと、昭和天皇は「東郷外務大臣の意見に賛成である」と言われました。これは「無条件降伏」でポツダム宣言受諾ということでした。そして8月10日未明、すぐに連合国に対して「大日本帝国政府は無条件で、天皇の統治大権のみを条件としてポツダム宣言を受諾する」ということを打電しました。アメリカでは、日本降伏の日は8月10日で、この日が「対日戦勝記念日」となっているそうです。

実はこの後、アメリカからの返答があり、政府内でもめることがあったのですが、また昭和天皇の二回目の御聖断によって終戦が決まり、玉音放送が8月15日に流れたのです。

このような経緯をマッカーサーは知った上で、昭和天皇を迎えたのです。昭和天皇はシルクハットに燕尾服で赴かれましたが、マッカーサーは軍人の平服でした。おまけにマドロスパイプをくわえていたと言います。立場の違いを示したかったのでしょう。

昭和天皇が非常に緊張をされている様子だったので、マッカーサーはそこで煙草を勧めました。昭和天皇は煙草を吸われなかったので、煙草の扱い方がわからず、ぽろっと煙草を落とされたそうです。それを見ていたマッカーサーは“ああ、このお方も命が惜しいのだな。『私は戦争に反対だった』と弁明に来られたんだ。戦争犯罪者として起訴されないよう、自分の立場を訴えに来られたのだ”と思ったそうです。

 第一次世界大戦で、マッカーサーの父親が敗戦国・ドイツに進駐していた時のこと、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世がやってきて「戦争は国民が勝手にやったことです。自分には何の責任もありません。したがって自分の命だけは助けてほしい」と言ってきたそうです。この後、結局ヴィルヘルム2世は、たくさんの財産を何両もの列車に詰め込み、それとともにオランダに亡命しました。その話をマッカーサーは父親から聞いていたので “日本の天皇も同じか”と思ったのです。しかし、昭和天皇はマッカーサーの意に反して、直立不動で次のように言われました。

「日本国天皇はこの私であります。戦争に関する一切の責任はこの私にあります。私の命においてすべてが行われました限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません。絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処されても、いつでも応じる覚悟でおります。しかしながら罪なき八千万の国民が、住むに家なく、着るに衣なく、食べるに食なき姿において、まさに深憂に耐えないものがあります。温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民の衣食住の点のみにご高配を賜りますように」

 そして、その後に「恵んでほしいとは言いません。担保を用意してきました」と、菊の御紋の袱紗包みを開けられました。そこには皇室の全財産目録がありました。〝天皇家の全財産を担保として差し出すから、これで日本国民に食べさせてほしい。自分の命はどうなってもよい〟という、ヴィルヘルム2世とは真逆のことをされたのです。余談ですが、その全財産は当時のお金で37億円です。当時の三井、三菱、住友という大財閥の資産がおよそ3億円から5億円だったことと比べると、天皇家の財産がどれだけ大きかったかがわかります。

昭和21年に「財産税法」ができ、この37億円のうち90パーセントが主に物納により税金として納められたそうです。

昭和天皇が言われたことに、マッカーサーは驚きました。『マッカーサー回想録』には大きな感動に揺さぶられたマッカーサーの言葉があります。

「死を伴う程の責任。それも私の知り尽くしている諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきでない責任を引き受けようとする。この勇気に満ちた態度に私は骨の髄まで揺り動かされた。私はその瞬間、私の眼前にいる天皇が個人の資格においても、日本における最高の紳士であることを感じ取ったのである。数千年の世界史の中、民族は起こっては滅ぶということを繰り返してきた。しかしその中で、国民をかばって自分の命を捨てようという君子のあることを私は知らなかった」

マッカーサーはくわえていたマドロスパイプを机に置き、椅子から立ち上がり、昭和天皇に椅子をすすめ、自身は立ったまま「天皇とはこのようなものでありましたか!天皇とはこのようなものでありましたか!」と繰り返し言ったそうです。そして「私にできることなら、何なりと申しつけてください」と言ったそうです。それに対して昭和天皇も立ち上がられ「私には何の望みもありません。重ねて国民の衣食住の点のみにご高配を賜りますように」と言われたのです。この後、マッカーサーは昭和天皇を玄関まで丁重にお見送りしたそうです。

その後マッカーサーの命令により、アメリカ本国から大量の救援物資が何度も日本に運ばれました。

実は、アメリカもソ連も天皇陛下を戦犯の一位に挙げ、絞首刑にしようと思っていたのです。天皇制を無くそうという考えがあったのです。ソ連は共産主義、アメリカは共和制の国で、自分達の国と同じにしてやろうという考えがあったのです。それにマッカーサーは反対しました。

終戦の年の11月、アメリカ政府がマッカーサーへ、天皇の戦争責任を調査するように要請しました。それに対してマッカーサーは「戦争責任を追及できる証拠は一切ない」と回答して、昭和天皇を守りました。ただ、GHQは“天皇制を維持するのはよいが皇族が多すぎる”と考えました。当時、天皇家以外に14の宮家がありましたが、その中の3宮家(秩父宮・高松宮・三笠宮)だけが残りました。天皇陛下の弟君です。後の11宮家は“臣籍降下”、つまり“国民になる”ということになりました。異論はありましたが、最終的にGHQの考えを宮内官僚を中心に議論し決まりました。

重臣会議の席上、鈴木貫太郎元首相が「今日、皇族の方々が臣籍に下られることがやむを得ないことはわかったが、しかし、皇統が絶えることになったならどうであろうか」と言うと、加藤宮内次官が「もしそのような時が来たら、かつての皇族の中に、社会的に尊敬される人がおり、それを国民が認めるなら、その人が皇位に就いてはどうでしょうか。しかし、適任の方がおられなければ、それは天が皇室を不要と判断されたのでしょう」と言ったそうです。

そして、11宮家の方々の集まりで加藤宮内次官が「万が一にも『皇位を継ぐべき時が来るかもしれない』との御自覚のもとで身をお慎みになっていただきたい」と、意見を述べたのです。実際に今、皇位継承権がある男性皇族は4方です。天皇陛下の弟君、皇太子殿下、秋篠宮殿下、悠仁殿下です。しかし将来的には悠仁殿下しかおられないのです。非常に厳しい状況になっています。

昭和22年10月18日、11宮家の方々が赤坂離宮に集まられ、昭和天皇とのお別れの晩餐会が催されました。その時、昭和天皇は次のように言われました。

「身分は変わるようになったけれども、自分は今までと全く同じ気持ちを持っている。どうか今後もいつでも会いに来てくれるように」

皇族方と旧11宮家の交流は、菊栄親睦会という会を通じて現在も続いています。

平成17年11月27日、黒田清子様のご結婚をお祝いするお茶会が皇居で開かれ、菊栄親睦会の会員である旧11宮家の方々が出席されたそうです。おそらく眞子様のご結婚の時にも旧宮家の方々が集まられることと思います。

終戦後、焼け出された日本国民を慰め、励ますため、昭和天皇は日本全国を御巡幸されました。1946年から1954年まで9年間にわたり、47都道府県のうち米軍占領下にあった沖縄県以外はすべて巡られました。訪問地は1411カ所。当時はホテルも旅館もほとんど焼けていましたので、陛下は電車や車の中で寝泊まりされ、一週間も10日もお風呂にお入りにならず、各地を巡られたこともあったそうです。この時、GHQの高官達は「一番の戦争責任者が目の前に来るんだ。天皇は国民に石のひとつもぶつけられるんじゃないか」と噂をしていたそうです。ところが、結果は全く違いました。国民はみんな大喜びで昭和天皇を歓迎しました。昭和天皇が御巡幸されたことによって国民の士気が上がり、復興が急速に進んだのです。

食糧難の時でしたが“何か特別なものを昭和天皇にはお出ししなければいけない”というのが日本国民の考え方です。そんな中、たまたま最初に出されたウナギを昭和天皇が「おいしい。おいしい」と言って召し上がられたため、どこへ行っても初めのうちはウナギが出され、昭和天皇が少し困っておられたというほほえましいエピソードを聞いたことがあります。

昭和63年3月9日、昭和天皇が病床につかれると、全国の御平癒祈願所に約900万人が記帳に訪れました。四十数年前の御巡幸で昭和天皇に慰め、励まされた人々も少なくなかったことと思います。

昭和天皇は病床で「もう、だめか」と言われたそうです。医師達は、ご自分の命のことかと思いましたが、実は「沖縄訪問はもうだめか」と問われたのです。この沖縄に寄せられた昭和天皇の御心は、今上陛下によって平成5年に果たされました。

天皇陛下というすばらしい国家元首をいただいている日本国民は本当に幸せだと思います。