福祉に生きる法音寺の伝統

掲載日:2017年8月1日(火)

『法音』七月号に日本福祉大学付属高等学校の生徒さんの作文が掲載されていました。お読みいただいた方も多いと思いますが、実は今年の春、新入生全員に講演をさせていただいた時の感想文が届けられたので、それを『法音』に載せてもらったのです。昨年もやはりそうでしたが、なかなか良い文章がたくさんありました。

講演のテーマは『創立者・鈴木修学先生』のことでした。『日本福祉大学を創った鈴木修学先生の物語・日本の福祉を築いたお坊さん』という本が中央法規出版から出ていますが、その本を新入生全員に法音寺から差し上げていて、それを題材としてお話しさせていただいたのです。ちなみにこの本は、大学にも専門学校にも配布されていて、その年度の新入生は読んでくれていると思います。

お話の中心は御開山上人の「救ライ活動」です。御開山上人の取り組まれたことの中で、ライ病患者さんのお世話をされたことが一番特筆すべきことと思いますので、そのことを中心にお話ししたわけです。ライ病のことを今は「ハンセン病」と言っていますが、法律上の文言は「ライ」が多く使われていますので「ライ」という語を使わせていただくことを最初にお断りしておきます。

まず全員に「皆さん、ライ病、またはハンセン病のことを知っていますか?知っている人は手を挙げてください」と聞いたところ、誰も手を挙げませんでした。知っている生徒はゼロでした。実はその少し前に、昭徳会の新入職員に同じような質問をしたのですが、やはりゼロでした。ですから〝これはちゃんとお話ししておかなければ…〟と思いました。

皆さんご存知のように当時、大正初期ですが、杉山先生は〝世の中で一番かわいそうな人はライ病の人だ。法華経を信仰する者はまず、いの一番に救いの手を差し延べなければいけない〟とおっしゃっていました。ライ病は単なる重い病気とか、怖い病気というだけでなく、世の中からものすごい「差別」を受けていたからです。そのことを今私が思うに、高等学校の生徒も昭徳会の新人職員もみんなが知らないというのは逆の意味で〝ありがたい世の中になったんだ〟ということです。若い人みんなが知らないということは〝差別を知らない時代になった〟ということが言えると思うからです。

〝知らない〟ということには別の問題があるかもしれませんが、差別する意識がなくなっているとすれば、ありがたいことだと思うのです。

当時、ライ病は「空気感染する」とか「遺伝する」と言われました。あるいは〝天の刑罰を受けた〟という意味で「天刑病」とか、〝前世の業〟が災いした「業病」などとも呼ばれていました。家族の中から一人ライ病人が出ると、一生涯座敷牢に閉じ込めたり、また家から追い出して戸籍から抹消することもあったそうです。家族の中に病人がいると「ライ病の家系」と決めつけられ、家中の者が周りの人から嫌われ、排斥されてしまうのです。ですから隠すしかなかったのです。そうして居場所のなくなった人は浮浪し、やがて神社とかお寺の境内にたむろして乞食するしか生きるすべがありませんでした。家族のことを思って自ら名前を変え、出身地も偽り、結局死ぬまで、たとえ親兄弟が死んでも家に帰ることすらできませんでした。

明治後期のことですが、身延山にも浮浪病人が大勢いたそうです。その人たちを見て、〝どうにかしてあげなければ〟と手を差し延べられたのが綱脇龍妙上人です。綱脇上人が若い頃、身延山に参詣された時、そういう人たちが大勢いて、一人の若者が泣いてすがり、助けを求めてきたそうです。その人をそのまま捨てて立ち去ることはできず、お題目を唱えていたら、日蓮聖人から〝何とかしてやれ〟と言われたように聞こえたといいます。天耳というものでしょう。その天耳によって明治39年、綱脇上人は身延深敬病院を始められたのです。日本人として初めての「救ライ活動」と言われています。「ライ予防法」という法律の施行される前年のことです。

とにかく世間から忌み嫌われ、差別・虐待を受けていた人々に対して杉山先生は一生懸命お世話をされました。昔の本を見ますと村上先生と、杉山先生の姪にあたる養女みつさん(後の御開山上人の奥さま)とその妹の千代子さんの四人で、東京や静岡県御殿場、また熊本県にあったライ療病院に赴かれ、今で言うボランティア活動に励まれました。患者さんが傷口に巻いていた、膿のいっぱい付いている包帯を洗い、その包帯を再利用するときには、片方を口にくわえて患部を巻かれたというのですから、本当にすごいことをされたものです。

「空気感染する業病」と嫌われていた病気です。その病気を患った患者さんの膿のついた包帯に、さわるだけでも手は引っ込んでしまうと思うのですが、それを口にくわえられたのです。すごいことを、この四人の方はされたのです。その上、病室はすごい臭気が漂っていたといいます。ある時、みつさんがその臭いにひるみ、手で鼻を覆ったところ、杉山先生にひどく叱られたそうです。〝嫌ってはいけない〟と戒められたのです。

お伴をした村上先生はお医者さんとして、時に診療にあたり、みつさんと千代子さんは看護師として、杉山先生の教えられた通りに患者さんのお世話をされたのです。この頃の仏教感化救済会・杉山先生の活動は世間からも注目され、当時の読売新聞にたびたび掲載されました。

杉山先生は常々、ライ病に関してだけでなく、同じように当時「不治の病」と怖れられていた肺病に関しても“因縁がなければうつることはない”と言われていたと聞いています。ですから救済会には、胸を患った患者さんも何人かおられたということです。そういう人は病気を信仰で治すために、救済会に来ておられたのです。そうした人々を、会にいるみんなでお世話されていたのです。

〝因縁がなければうつらない〟と言われても、因縁は目に見えないので困ってしまった当時の人は〝病気を嫌ってはいけない〟と思うようにしたそうです。〝どんな病気でも嫌うとその因縁を呼び込むから〟というのです。実際そうだと思います。不思議なもので何事も〝嫌い〟だと思うと逆に寄ってくるものです。また当時の人は、お世話をすることによって因縁が消滅するとも考えていました。

上野支院に犬飼妙淳法尼という方がおられました。村上先生の時代に入信され、熱心に信仰されていました。当時の大乗修養団には、臥竜山に農場と修養会館のようなものがあり、そこにもライ病の人々がおられたようです。ある時、そこへ犬飼法尼がお子さんを連れて行かれました。するとそこの廊下が、まるでワックスをかけたみたいにテカテカに光っていたそうです。〝どういうことですか?〟と聞いたところ、〝ライ病の人たちの膿が廊下に落ち、その上をみんなが歩くものだから自然にテカテカになった〟ということでした。

当時は皆さん着物を着ておられましたから、座ると羽織の裾にそのテカテカが付きます。法尼が気づくと、連れていたお子さんがその裾を口にくわえていたそうです。びっくりした法尼でしたが、そこで子どもをとがめると〝嫌った〟ことになります。その心をぐっと抑え、お題目を唱えられたということです。ライ病は人々から本当に怖れられていたのです。

ライ病がなぜ「ハンセン病」と言われるようになったかというと、ライ菌を発見した人がアルマウエル・ハンセンという人だったからです。この人の名前をとってハンセン病と呼ばれるようになったのですが、この病気は聖書や仏教経典にも出ています。ということは、何千年もの昔からあって、人々を苦しめてきた病気だったということがわかります。

この病に関連した日本における歴史を少し辿ってみようと思います。

明治40年、「ライ予防に関する法律」ができました。日本が日清・日露の大戦に勝利して先進国の仲間入りをすると、イギリスをはじめ諸外国の人が来るようになり、その人たちが町中を浮浪して歩くライ病の人を見て〝先進国の仲間入りをした日本なのに、これではいけない。何とか対策を取るべきだ〟という声が上がり始めたものですから、法律ができたのです。ちなみにその二年後、杉山先生の仏教感化救済会が発足しています。

その後も差別は続き、昭和4年、各地に「無ライ県運動」が起こりました。〝ライ病患者を自分達の住む県から無くそう〟というものです。〝無くそう〟というのは〝治そう、お世話をしよう〟というのではありません。〝追放しよう〟ということなのです。これが全国各地で非常に盛んになり、宗教団体なのに大々的に「追放運動」に加担した教団もありました。ある仏教教団の宗門誌にこんなことが書かれてありました。

単に一個人の破滅ではない。一人出家すれば九族天に生まれるというが、一人ライに感染すれば九族地獄に堕するのである」

この教団は随分後のことですが、大々的に謝罪文を新聞に出しました。当時はそんな時代だったのです。

御開山上人がみつさんと結婚され、杉山先生の命を受けて九州・生の松原のライ療病院に赴任されたのはちょうどこの頃のことです。現地で二年半、悪戦苦闘の末、最後は身延深敬病院の綱脇上人に運営を引き受けていただき、御開山上人が名古屋に戻られたのは昭和5年12月のことでした。「ライ予防法」制定の直前です。ちなみにその後も綱脇上人とのお付き合いは続き、御開山上人は身延山に参詣されるたびに深敬病院を訪れられていたということです。古い記録ですが、昭和7年にご夫妻で赴かれ、慰問されたという「芳名録」を見せていただいたことがあります。

昭和6年、完全に患者を隔離しなければいけないという「ライ予防法」が制定されました。患者さんたちは強制的に集められ、山奥とか離れ小島に作られた療病院に収容されることになりました。そこで治療を施されたといいますが、実際はとんでもないことも行われました。〝子どもが産まれるとライ病が増える〟ということで、断種手術をされたり、少しでも院の方針や職員に逆らったり、脱走を企てると「独房」に入れられたり、非情な差別・虐待を受けたのです。

昭和18年頃、プロミンという特効薬が開発され、治療が可能になりました。日本で使用が開始されたのは昭和22年です。この時点で医学的には隔離は必要なくなったのですが、その後もずっと続きました。この「ライ予防法」がなくなったのはなんと、平成8年です。それまでこの法律は生きていたのです。

数年前に、東京の多摩全生園という施設の入園者自治会長をしておられた佐川修さんに、法音寺で講演をしていただきました。少年の頃に療病院に入れられ、現在80歳を越えておられると思います。その佐川さんが強調しておられたのは〝ライ病は感染しない〟ということでした。「これまで関係したお医者さんも看護師さんも、誰もうつっていません。非常に感染力の弱い病気で、空気感染なんてありえません」と、はっきりおっしゃいました。

その後、皆さんご存知と思いますが、〝ライ予防法は人権蹂躙、憲法違反のとんでもない法律だった〟ということで裁判(ライ予防法違憲国家賠償訴訟)が起こり、〝国がライの人々に賠償しなければいけない〟という判決が下りました。その判決を受けて当時の小泉総理大臣が〝控訴はしない〟と決断し、判決はそのまま受け入れられました。その時、患者さんたちが「初めて人間として認められた」と言われたことがとても印象に残っています。

その後、最高裁判所が謝罪文を出しました。当時「隔離裁判」が行われていたのです。つまり、ライ病の人が罪を犯すと普通の裁判所ではなく、隔離した場所で裁かれていたのです。その明らかな差別に対して最高裁判所が謝罪したのです。

このように歴史を辿ってみると、ライ病がどれほど怖れられ、差別を受けてきたかがおわかりになると思います。そして世間がどうあろうとも、そういう病気に対して杉山先生も村上先生も御開山上人ご夫妻も、真の慈悲の手を差し延べてこられたことは本当に尊いことだと思います。

「ライ予防法」が廃止され、裁判が結審して小泉総理が「控訴せず」と断を下し、最高裁判所も、さらに、差別のお先棒をかついでいた仏教関係者・教団も謝罪しました。そのライ病の人々に対して法音寺の先師は百年以上も前から、ずっと救いの手を差し延べてこられたのです。私がしたわけではありませんが、本当に誇らしい気がいたします。

杉山先生は〝困っている人はみんないらっしゃい〟とおっしゃいました。法音寺はそういうふうに昔から、その時々の困っている人々のために尽くしてきました。これからも頑張っていきたいと思います。どうぞ御支援を宜しくお願いいたします。

※故・浅井千代子刀自…『鈴木修学先生の南無妙法蓮華経』の著者・元身延山大学学長・文学博士 浅井圓道上人の御母堂