法華経の教えを愚直に実行しましょう

掲載日:2017年1月1日(日)

無知の知

私はろくに学校も出ていないし、学が無く物を知らない」と自分を卑下する方がありました。その方に対して私は「人間一人が知っていることは、どんなに物知りの人でもたかが知れているものですよ」とお話しさせていただきました。実際、博覧強記と言われるような人でも知っていることには限りがあります。ノーベル賞を受賞するような人が何でも知っているかというとそうではありません。

逆に人間は、本当に偉くなればなるほど、悟りに近づけば近づくほど“自分は本当は何も知らない”ということに気づきます。悟りから遠い人ほど“自分は何でも知っている。自分は偉い”と思ってしまうものです。

人間は考える葦である」と言ったフランスの天才ブレーズ・パスカルは『パンセ』の中で次のように述べています。

「私は自分を取り巻いている宇宙の恐ろしい空間を見る。そして自分がこの渺茫たる広がりの一隅につながれているのを認めるが、なぜ他の所よりもこの所に置かれているのか、なぜ私が生きるために与えられたこのわずかな時間が、私の先にあった全永遠と私の後に続く全永遠とのどこかに定められないで、ここに定められたかを知らない。私がいたる所に見るのは無限のみであり、それは私を一箇の微分子のように、また一瞬の間続いて再び帰らない影のように取り巻いている」

人間が生きている時間はせいぜい長くても100年ぐらいでしょう。それは宇宙の永遠の時間からすればほんの一瞬です。その永遠の時間の中の一瞬に、なぜ自分がここにいるのか誰にもわかりません。パスカルは言います。

「私が知っているすべては『自分がやがて死ぬべきものである』ということ。にもかかわらず、避けられない『死』というものこそ私が最も知らないものである」

要するに「私は自分がどこから来たのかも知らず、どこに行くのかも知らない。結局何も知らない」とパスカルは言っているのです。

古代ギリシアの大哲学者ソクラテスは「自分より智慧のある者がいるかどうか」について神託を受けたことがあります。神託とは、巫女さんを介して神さまに伺うことです。その時の神さまの言葉が「汝より智慧のある者はいない」というものでした。ソクラテスは「自分より智慧のありそうな人はたくさんいるのに…」と思い、次から次へ人を訪ね、政治家、詩人、さらに大工など市井の人にも声をかけましたが、皆、何か知っているようでいて肝心なことになると何も知りませんでした。そのうちにソクラテスは「みんなは知ったようなことを言う。また知ったようなふりをするが、本当のことは何も知らない。みんな自分の無知を知らない。しかし私は自分の無知を知っている。だから神さまは、私より智慧のある者はいないと言われたのか」と思ったそうです。これを『無知の知』と言います。

では、本当に無知な私たちはどうすればよいか。道元禅師が言っておられます。

「仏道に入るには、我がこころに善悪を分けて、よしと思いあししと思うことを捨てて、わが身よからん、わが意なにとあらんと思うこころを忘れて、善くもあれ、悪しくもあれ、仏祖の言語行履に随いゆくなり」

「仏祖の言語行履」とは、これまでのもろもろの仏さまや菩薩さまが言いのこされた言葉であり、また歩かれた跡ということです。それを凡夫のはからいで思い計らうことをやめて、ただそのままに頂戴し、そのままその跡をふむということです。

これを実践した一番良い例が周利槃特だと思います。

愚直な実行

周利槃特は「愚か者」の象徴です。自分の名前を覚えることさえできませんでした。しかし周利槃特はひたすらお釈迦さまの言われた通り掃除をすることによって、法華経五百弟子受記品においてお釈迦さまから「将来仏に成る」という記別を与えられたのです。説法の座に連なった弟子の一人「周陀」とあるのが周利槃特のことです。このことは私たちに「知識ではない。生半可な智慧でもない。愚直なまでにお釈迦さまの言われたことを信じて実行する人が仏に成れる」と教えているのです。

日蓮聖人の御遺文・法華題目鈔に次のように書かれています。

「夫れ仏道に入る根本は信を以て本とす。五十二位の中には十信を本とす、十信の位には信心初めなり。たとい悟りなけれども、信心あらん者は、鈍根も正見の者なり。たとい悟りあれども、信心なき者は誹謗闡提の者なり。善星比丘は二百五十戒を持ちて四禅定を得、十二部経を諳にせし者なり。提婆達多は六万八万の宝蔵を覚え、十八変を現ぜしかども、此等は有解無信の者也。今に阿鼻大城にありと聞く。又鈍根第一の須(周)利槃特は、智慧もなく悟りもなし、只一念の信ありて普明如来と成給う」

“仏道を修行しようとする者が実践すべき五十二の位階の中でも、十信の位をもって根本としている。この十信の中でも、信心が最初の位となっている。たとえ悟るところがなくとも、信心のある者は学識や才能の低い鈍根であっても、正見の者といえる。かりに才能があって悟りがあったとしても、信心のない者は、仏になるべき種子を断じてしまった者である。例をあげてみるならば、善星比丘という人は二百五十もの戒をたもち四種の禅定を悟り、仏一代の経典を暗記したほどの者である。また提婆達多は六万とも八万ともいわれた数多くの経典をおぼえ、十八種類に及ぶ神通変化の術を現わしてみせることができたが、智慧は優れていても信心が欠けていたので、今でも阿鼻地獄に堕ちているということである。それに反して鈍根の第一といわれた須(周)利槃特は、智慧もなく悟りもない人であったが、ただ一念の信心があったので、普明如来となられたのである”

孔子の弟子・曾子

孔子の弟子に曾子(呼び名は“参”)という人がいますが、その人のことを孔子は「ああ、参はのろまだね」と『論語』の中で言われています。

曾子は孔子より40歳くらい年下で、孫のような存在でした。その曾子を孔子は非常に可愛がりました。あまり要領は良くないけれども、言われたことを一心に実行したからです。

やがて曾子は孔子の孫・子思の家庭教師になりました。そして、その子思が孟子を教えたのですから中国を代表する思想家・孟子がこの世に出たのは曾子の功績が大であったと言えると思います。

ある時、大勢の弟子に囲まれた中で孔子が「曾子よ。我が道は一筋の道で貫かれている」と言うと、曾子は「はい」と答えました。そして、孔子がその場を離れると、弟子の一人が「あれはどういう意味ですか」と曾子に尋ねました。すると曾子は「孔子先生が貫いたものは一つ、“忠恕”だけなのです」と言いました。「忠恕」とは「慈悲」のことです。愚直なまでに孔子の言われたことを実行し、孔子の生き方に間近でずっと触れてきた曾子には、その教えの深いところが即座にわかったのです。

孔子が曾子に説いた『孝経』という書物があります。この中には「親孝行」のことが書かれています。

ある日、家でくつろいでいた孔子が傍にいた曾子に問いかけます。

「昔の優れた人たちは無上の徳を備え、正しい道を踏み行って天下万民を教え導かれた。それで万民は睦まじくなって、上の者も下の者も不平を抱いて憎みあうことが無くなった。お前はその無上の徳、正しい道とはどのようなものか知っているか」

曾子はすぐに居ずまいを正して答えました。

「私のような愚かな者がそのようなことがわかるはずがありません」

すると孔子は言いました。

「よいか。孝行があらゆる道徳の根本なのだ。我が身は両手両足から髪の毛、皮膚の末々に至るまですべて父母から頂戴したものである。それを大切に守って傷めつけないようにするのが孝行のはじめなのだ。立派な人物になり、正しい道を行い、名を後世までも高く掲げて、父母の名を広く社会に知らせる。それが孝の終わりなのだ」

曾子は亡くなる時に自分の手足を「どこにも傷などないだろう」と言って、弟子たちに見せたそうです。そして

「孔子さまに『父母からいただいた身体を大事にせよ』と言われたから、私は生涯、身体を大事にしてきたのだ」と言ったのです。

曾子は一心に孔子の教えを守ったのです。孔子の教えを本当に実行して、弟子たちに伝えたのです。だから孟子にも、孔子の教えが正しく伝わっていったのです。

師匠の教えを守る

最近、ある雑誌で、小児外科と消化器外科の専門医の対談を読みました。その対談の中で二人の医師は共通する話をしていました。

“手術後は絶対に合併症を起こさせてはならない”ということです。

合併症とは、手術後に新たな重い病気に罹ることです。

一人の医師は「手術の時に血を出してはいけない」と師匠から言われたそうです。血を出すと後で合併症になりやすいからです。だから「時間がかかってもよいから血をできるだけ出すな」というのが師匠の教えだったそうです。するともう一人の医師も「私も同じです。『出血は最小限にせよ』と教えられました。だから、私も手術の時間がかかることがあります。ある学会で手術が遅いことを指摘されましたが、私は『手術は時間を競うものではありません』と反論しました」と言っていました。

以前、この医師の所に中国から研修医が来たことがありました。その研修医も「先生は手術が遅いですね」と言ったそうです。そこで、「手術は時間ではない。とにかく血を出さないことが大事なのだ。そうすれば合併症のリスクが少なくなる。手術をした後、心配がない。これが大事なことだ」と言うと、得心がいったのか、中国に帰ったその研修医は、ゆっくり丁寧に手術をするようになったそうです。他の医師からは「日本で何を憶えて来たのだ」と言われたそうですが、その医師が手術すると合併症が起こらないので評判が良くなり、患者さんが大勢来るようになったそうです。

余談ですが、国が補助をしている医療費は毎年どんどん増えており、去年は過去最高の41・5兆円だったそうです。このことに対して心臓外科の権威で先年、天皇陛下に手術を施された順天堂大学付属病院院長の天野篤先生は外科医の立場から“医療費を減らすには合併症を減らすことだ”とおっしゃっています。合併症で重い病気になる場合、一人1億円くらい余計にかかることがあるそうです。だから合併症を減らさなければいけないと天野先生は言われるのです。

そして、天野先生もやはり「血を出さないようにするべきだ」と言われていますが、「手術は速いのが良い」とも言われています。前出のお二人の先生と違って天野先生の場合、専門は心臓手術なので、例えば、人工心肺を長時間付けておくと合併症を引き起こす可能性が高まるのだそうです。

師の教えはどの分野でも経験に基づくものです。ですから師の教えを愚直に守り通すことは、どんな世界でも大事だと思います。