どんなに苦しくても にこやかにふるまいましょう

掲載日:2016年10月1日(土)

リーダーの資質について、上智大学の名誉教授・渡部昇一先生は『歴史に学ぶリーダーの研究』という講演で、「リーダーはどんな時も機嫌が良くなければいけない」と言っておられました。

「ドイツとの戦争に勝利したイギリスのリーダーであったロイド・ジョージ(第1次大戦時)もチャーチル(第2次大戦時)も、いずれもにこやかな人で、特にチャーチルは人々に対してVサインもするような茶目っ気のある人でした。戦争に負けたドイツのヒトラーは、いつもしかめ面をしていたし、ヴィルヘルム二世にしても、笑顔を人に見せたことがなかった。この辺りの差ですね」(渡部先生述)

歴史上のリーダーと私たちとは何の関わりもないと思ってはいけません。“いつも機嫌が良いようにふるまう”のは、修養としても大事なことです。

新渡戸稲造博士は著書『世渡りの道』の中で次のように述べておられます。

「かつて英文の聖書を読んだ折、しばしば Be of good cheer.(汝、心安かれ)という句に出会った。その後、注釈書を読んだ時に、聖書全体を通じてこの句が40回も出てくるということを知った。私も計算したわけではないから保証はできないが、注意すると、ところどころに見当たるので、あるいはそのくらいあるだろうと思う。新約にも旧約にも、不愉快の時、艱難の時、あるいは病気にかかり、貧乏となり、はたまた罪のために苦しむ時、そこにこの語が繰り返されている。

普通にいう英語の『チアフル(cheerful)』、すなわち“愉快らしい顔をすること”は、たいしてむずかしいことではないと思っていたが、聖書にしばしば掲げられてあるのを見てから、なるほどこれは容易ではないことであり、宗教的に考えるとすこぶる重く、かつ実行しようとしてはじめてその重みがわかることだと思った」

人生の中では不快な出来事に遭遇することが多々あります。そういう時、怒りを外に表さず、愚痴をこぼさず、不幸を語らないで、機嫌良くすることは大いなる修養であると思います。

不快をぐっと堪えて、チアフルに世渡りをして、人生を切り拓いた人物を二人紹介します。

村木さんの転機

一人目は厚生労働省で事務次官をしておられた村木厚子さんです。

村木さんは26歳の時、当時の労働省の同期の人と結婚しました。その後、子どもが生まれ、キャリアを重ねながらも、妻として、また母親として一生懸命に頑張っていました。そして、キャリア官僚として局長にまでなりました。

しかし、53歳のある日、障がい者向け郵便割引制度を悪用した不正事件で、偽証明書の作成に関与したとして逮捕起訴されたのです。取り調べに対し、村木さんは事件への関与を完全に否認し続けたので、5カ月(げつ)間も拘留されました。理不尽な取り調べに、ストレスでご飯も喉を通らなくなり、友人から手紙が来ても返事を書けないし、差し入れがあっても「ありがとう」と言えないほどに、村木さんは落ち込んでしまいました。また、名前を呼ばれず、「十三番」と番号で呼ばれたことも落ち込む大きな要因になったそうです。村木さんにとって、毎日が“心が折れる日々”でした。

そんなある日、友人から絵本の差し入れがありました。「本を読むのは大変だろう。読む気にならないだろう。でも絵本なら」ということで差し入れてくれたのです。『花さき山』という本です。

主人公である村娘の“あやちゃん”が山菜を取りに山へ行くと、そこに不思議なおばあさんがいました。おばあさんが「きれいなお花畑があるから連れて行ってあげるよ」と言うので、あやちゃんは連れて行ってもらいました。そこが花さき山でした。おばあさんはあやちゃんに向かって言います。

「人のために優しいことを一つすると花がぽっと一輪咲くんだよ。ここは一面、きれいな花が咲いているだろう。これは村の人たちが人のために優しいことをした、その結果なんだよ。村の人たちの優しさの表れなんだよ。今ここに咲いたばかりのきれいな赤い花があるね。これはあやちゃんが咲かせた花だよ。あやちゃんが昨日、妹のそよちゃんに服を譲ったね。私はいいから妹に作ってやって、とお母さんに言ったよね。そのあやちゃんの優しい心がこの花を咲かせたんだよ」

村木さんはこれを読んだ時、「自分は、今何もできていない。みんなが手紙をくれたり、食べ物を届けてくれたり、毛布を差し入れてくれたり、いろいろなことを自分のためにしてくれているのに、自分は何の恩返しもできていない」と気づいたそうです。そして「そうだ、手紙を書こう。とにかく、から元気でもよいから『元気だ』と書いて、心配してくれている人たちに安心してもらおう」と思い立ち、「元気です。大丈夫です。心配なく」と、村木さんはたくさん手紙を書きました。それが心の転換になり、本当に元気になれたそうです。

それから「ここにいたら仕事も家事もしなくてよい。ご飯は三度作ってもらえる。洗濯もしてくれる」と思えるようになったのです。そして「こんな暇を持て余していてはもったいない」と、拘留中に150冊もの本を読んだそうです。

その後、保釈が認められて釈放され、大阪地裁で無罪判決を勝ち取りました。逆に、証拠を改ざんした検事たちが逮捕されました。そして2013年7月、村木さんは厚生労働省のトップ、事務次官に就任しました。

村木さんは冤罪で拘置所に入れられたので、国から4千万円近くの賠償金がおりましたが、裁判費用を差し引いた全額を障がい者団体に寄付されました。

カントの悟り

二人目は今から三百年くらい前に活躍した大哲学者、イマヌエル・カントです。

カントは生まれた時、非常に病弱でした。その容姿は頭ばかりが異様に大きくて体は妙に小さく、胸は非常に薄かったそうです。両親はその小さくて奇妙な子どもを見つめ「長生きできないのではないか」と心配したそうです。実際、ぜんそく気味で、いつもゼエゼエ言っていたといいます。そして脈拍はなんと、いつも百二十以上あったそうです。カント自身も「いつまで自分は生きられるのか」と思っていたようです。カントは貧しい馬具商人の子どもだったので、お医者さんにかかることもできませんでした。

たまたま、巡回医が村にやってきた時、「せっかくだから診てもらいなさい」と村の人たちに勧められ、初めて診察してもらいました。そのお医者さんはカントを見てびっくりしました。17歳なのに身長が150センチくらいしかありません。その上、胸が内側にへこんでいるのです。背中はぐっと丸まっていました。こういう症状の人を治療するのは今でもむずかしいと思うのですが、当時はもっとむずかしかったと思います。

お医者さんは「これでは確かに辛かろう。でも残念だけど、これは医学では治らないよ。しかし、体は治らないかもしれないが、心は病んでもいなければ苦しんでもいない。そのことをいつも感謝して生きるんだよ」と言われました。さらに言葉を続けて「君が苦しいとか辛いと言うと、君のお父さんはもっと辛い思いをしなければいけない(お母さんはすでに亡くなっていました)。辛いけどそれでもまだ生きていられるんだと思って、感謝していくんだよ」と言われました。

とにかく村人が心配しているくらいですから、お父さんも兄弟もみな、自分のこと以上にカントのことを心配していました。カントは毎日、ゼエゼエ言いながら「辛い、苦しい」と一日中言うことが習慣になっていました。それを聞くお父さんや家族も、さぞ苦しかったと思います。

家路に向かいながら、カントは気持ちを切り替えたと言います。自分の辛さ、苦しさよりも、むしろお父さんや兄弟に心配をかけないように気を配ろうと思い、絶対に「辛い、苦しい」と言わない誓いを立て、意識的に陽気にふるまったのです。さらに、自分はいつまで生きられるかわからないのだから、生きている時間を有意義に使おうと、一生懸命に勉強したそうです。そして、地元のケーニヒスベルク大学に入り、その後、その大学の教授になり、ついには総長にまでなります。

カントは大事なことを証明しました。当時のヨーロッパでは、人間は一つの生命機械のようなものだと考えられていました。でもカントは言いました。

「違う。人間は心なんだ。いつ死ぬかわからない子どもが79歳まで健康に生きることができた。このもとは心だ。人間はいくら体を病んでいても、心を正して生きていけばよいのだ。人間は心を通して、超自然的な何らかの力によって生かされている」

二人に共通しているのは、過酷な境遇に負けなかった心の強さですが、周りの人に対する思いが心を強くし、逆境克服につながったのだと思います。口に出さない、顔に出さない堪忍は大事ですが、その上で、どんな時にもにこやかにふるまうことです。ただしこれには、一段上の修養が求められると思います。